形状指示

鉄道橋梁の井筒に用いられた異形煉瓦にはその形状を明示する目的で刻印がなされていることが多い。時代や地域、異形煉瓦の形状によって種々の系統があり、それを見比べるための便としてこのカテゴリを設定した。

形状指示の刻印は明治9年大阪~京都間鉄道の建設の頃にはすでに始まっており、例えば桂川橋梁の初代橋脚井筒では”A”、”B”、”D”、”E”の4種類を見ることができる(これに加えて井筒上部工の小アーチに使われた迫形煉瓦には”C”が打刻されている)。桂川橋梁の井筒は径12ftの円形井筒で、内側から撥形-撥形-扇形と積む段と扇形-扇形-扇形-撥形と積む段を交互に積んでいた(すなわち煉瓦部は2枚半巻、内側は煉瓦屑やコンクリートで充填)。この積み方のために扇形3種・撥形1種を要し、それらを区別するためにA~Eの4種のアルファベットが使われている。

この方式は桂川橋梁付近の工事に限ったものだったようで、同じ路線で同じ径の井筒が採用された水無瀬川橋梁では“ロ””ハ”の形状指示印が使われている。また9ft円形井筒が採用された太田川橋梁やそれにほど近い位置にある茨木川橋梁では”ホ””へ””ト”の3種が確認されている(12ft井筒と9ft井筒では異なる寸法の異形煉瓦が必要なため形状指示も異なる。なお桂川橋梁と同じ積み方をしていたとすれば各々4種類の異形煉瓦が使われているはずで、形状指示も”イ”や”ニ”、”チ”が存在するはずだが今のところ検出できていない)。このことは当時はまだ場当たり的に---工事現場あるいは工事区ごとに異なる設計・異なる発注で建造物が建設されたことを物語っている。興味深いことに水無瀬川橋梁や太田川橋梁では明治29年の複線化時にも初代と同じ形状・形状指示印が用いられていた。明治20年代初頭に行われた東海道線工事では井筒用異形煉瓦の形状が半ば規格化されていて(後述)、それが全線にわたって採用された実績があるにも関わらず旧方式を踏襲しているのは面白い。→形状指示 イロハ

垂井~大垣間の赤坂川橋梁(9ft円形井筒・M18.10)の橋脚瓦礫とみられる転石からは撥型1種と扇形2種が見出され、このうち扇形異形煉瓦に”シー”の印を検出した。後の定規のCに相当する形状であり、この頃には規格化がはじまっていたものと考えられる。ただしEに相当する撥型異形煉瓦(無刻印)は後年の規格とは異なる形状をしている。ここからさらに修正が加えられ後の工事に採用されていったのだろう。中山道線の一部として着工された揖斐川橋梁(12ft円形井筒・M19.12竣工)では東海道線や後年のM29規格に一致する形状指示印が使われている。その一方で五條川橋梁の勢陽組印異形煉瓦のように形状指示印のない煉瓦も採用されていた。

東海道線工事(横浜~熱田間)やそれに続く湖東線工事(米原~馬場間)、後の北陸線となる米原~長浜連絡線では同じ形状・形状指示印の煉瓦を各所で見ることができる。また製造者が異なっても形状が同じものには同じ形状指示がなされており、これら工事の頃には本格的に規格化されていたことがわかる。井筒の積み方は撥-撥-扇と扇-撥-撥の段を繰り返す2枚半巻とし、撥形は1種で扇形は弧長の異なる2種を用いた。12ft円形井筒では外側扇=A、撥=B、内側扇=Cとし、9ft円形井筒では12ftCを外周扇に流用、撥=E、内側扇=Dは9ft用に少し小型なものを用意している。即ち明治29年8月31日鉄工第1749号(課長達)『「ウヱル」使用異形煉瓦雛形並配置図及「カーブシユウ」図面ノ件』によって示されたものと同じで、東海道線ほかで試みられたものが正式な規格として採用されたことがわかる。

東海道線工事時代の形状指示はABCをカタカナで表したものがほとんどである。例;”エー””ビー””シー””等。中京地域ではどの工場もカナ表記で、二文字分くらいはある長い長音記号を採用しているのが特徴的である。これが滋賀県へゆくと”エ””ビ””シ”と一文字になるのも面白い。

①仁保川橋梁
9ft “E”
湖東組

②前河原避溢橋
12ft “B”
湖東組

③瀬田川橋梁
12ft/9ft “C”
湖東組?

④揖斐川橋梁
12ft “A”
西尾士族生産所

⑤木曽川橋梁
12ft “B”
市古工場?

⑥木曽川橋梁
12ft/9ft “C”
市古工場

誰もが読むことができるカナ表記は作業者間の意思疎通を円滑にするための工夫だったと思われる。ただし形状指示の意図が正しく理解されていたとは言い難く、A形状の煉瓦に誤って”シー”を打刻し、その指示を鵜呑みにして井筒のCの位置に配置した例が木曽川橋梁井筒(M24改築)に見られる。また工事の末期に残余煉瓦をかき集めて作ったとみられる十一川橋梁(9ft円形井筒、M22.3.竣工)ではCの位置に形状指示”エ”があったり、撥形の列に普通煉瓦が混じっていたりもする。もともと煉瓦は定形に焼き上げることが難しく寸法誤差があって当たり前だったから、現場で適宜加工したり転用したりすることが多かった。井筒規格もどこまで厳密に守られていたかは疑わしい。

こうしたカナ表記に混じる形でアルファベットの形状指示印も用いられていた。第二浜名橋梁(M21.1.竣工)の初代井筒には”E”が見られるし、刈谷の士族工場では”F””G”を打刻した製品を作っている。後者はM29規格にもない形状指示で、天竜川橋梁や大井川橋梁などに採用された大型の楕円形井筒のために設計されたものと想像される(12ft/9ft用のA~Eに加えてF、Gを使用したか。天竜川橋梁の左岸側井筒跡では12ft用”ビー”の転石が見つかっている。濃尾地震後に煉瓦橋脚に作り変えられた長良川橋梁でも7種類の異形煉瓦を用いたという記録があり〔『工学会誌』127巻「長良川鉄橋改築工事報告」〕、またM27から建造が始まった関西鉄道揖斐川・長良川橋梁も6種類の異形煉瓦+1種類の肉厚普通煉瓦で長径30ft/短径15ftの楕円形井筒が構築されたという〔『土木学会誌』第7巻第1号「軟弱なる地盤に建設せられたる橋脚橋台の構造と竣成後25年間の経過に就て」〕)。

明治10年代末から20年代にかけての建設において様々な試行がなされたのち、その成果をもとにしてM29、M30に12ft・9ft円形井筒、および楕円形井筒(長径14.5ft/短径8ft)の鉄製沓および煉瓦の規格が定められ、以降この形状が定着することになる(『「ウヱル」使用異形煉瓦雛形並配置図及「カーブシユウ」図面ノ件』)。例えば明治31年に複線化された桂川橋梁上神崎川橋梁複線部の井筒ではこの規格に則って作られ”A”~”C”の形状指示印が使われている。ただしM29規格では厚2-1/4inchで統一されていたが、厚さに関しては東海道線工事時代の肉厚仕様(厚74~78mm)を踏襲して作られたものが多い。

(M29規格が厚2-1/4”としたのはM24に定められた普通煉瓦の規格『明治24年11月18日甲第1137号(経理課長達)煉化石検査標準の件』に合わせたものとみられる)

小型楕円形井筒用の”甲”、”乙”、”丙”、”丁”もこの文字を形状指示として打刻した煉瓦が検出されている。例えば静岡県第一浜名橋梁の井筒周辺で”甲”字を添えた煉瓦断片が検出されているし、石部トンネルの延伸部に埋め草として用いられてる異形煉瓦の中に大野工場製の”乙”がある。

以上は省線規格ということになるが、兵庫県高砂市別府では省線構造物では見かけない大型の撥形煉瓦に”C”を打刻したものが検出されている。別府は大正期に煉瓦工場があった地域なので、私設鉄道が採用していた規格で製造したものか、あるいは単に円筒形状を構築するための独自規格であったかも知れない(印南台地に建設された淡河疎水では各所に円筒形の抜気塔が作られている。大型の円筒形煙突も使用先として考えられよう)。また堺市南三国ケ丘町では扇形異形に”B”を打刻したものが市街地で見つかっている。三重県桑名市の勢陽組跡地や同社製品が使われた諸戸家住宅でも形状指示つきの異形煉瓦を多数検出する。諸戸家の蔵や壁は明治28年に放火により焼失したのを大急ぎで再建したものといわれ、勢陽組工場に残っていた残余煉瓦を転用したものとみられる(勢陽組工場を引き継いだ水谷工場もこの頃まで操業)。時期的にみて関西鉄道の揖斐川橋梁辺りに向けて製造したものの残余であったのだろう。

異形煉瓦はその特殊な形状のため余ったものを転用しにくいが、諸戸家煉瓦蔵のように強引に流用した例もある。工場跡近傍で未使用の単体転石を検出することも多い。興味深い例としては静岡県石部トンネルの南口坑口で、これは明治44年に複線化した際に旧坑口も合わせて延伸しており、その両坑道に挟まれた筐体積みに撥形異形煉瓦が大量に転用されている。外部から見えない位置なので多少不格好でも問題ないと判断されたのだろう。ここに使われている異形煉瓦は9ft円形井筒の”E”と小楕円形井筒の”乙”。この2つは小口の幅が約1/2インチずつ違うだけで撥の開き方はほぼ同じであるため混用しても問題なく積める。北陸線前河原避溢橋湊堀橋梁(いずれもM22.3.竣工)でも壁体構造に撥型異形煉瓦を転用している。

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