泉布観使用煉瓦

泉布観は明治初年から建設が始められた造幣寮の応接所として建造されたもので、府下最古の近代洋風建築と目されている。昭和37年に大規模な解体改修工事が行われた際などに種々刻印の入った煉瓦が検出されていて、府下最初の煉瓦製造の姿を伝える貴重な資料となっている。

明治工業史 化学工業編」によると、造幣寮建設は英国人技師ウォートルスの指導のもと始められ、現大阪市城東区鴫野において江川某をして登り窯を築かしめ、建築用煉瓦数百万枚、耐火煉瓦を焼成したという(p.507)。また同所別ページでははじめ播州明石の瓦屋に焼かせたが結果不良であたっため改めて大阪の瓦屋に命じて焼製せしめたとある(p.544)。泉布観地内からは”YEGAWA”と刻印のある煉瓦が見つかっており、これが文献のいう江川某の製造を示していると考えられている。

泉布観からはこのほかにも”Sugimoto”(杉本?)、”MLAY”(村井?)、”さかひ 志ばち利”(?)等の刻印煉瓦が見つかっている。”YEGAWA”、”Sugimoto”印の煉瓦は大阪市蔵・大阪歴史博物館保管。

(”MLAY”は大阪―神戸間鉄道建設のため創始された堺の煉瓦製造所で製造されたものか? この煉瓦製造所では明治5年に権少属村井正利が勤務し、煉瓦製造法を考究してその成果を東海道線建設に投じている( 「鉄道一瞥」記事参照)。鉄道寮の煉瓦製造所は明治3年頃から操業開始。”MLAY”印は住友銅吹所跡の発掘調査でも見つかっている)。

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