大正煉瓦

大正6年2月に兵庫県印南郡曽根町1777(現高砂市曽根町)に創業した煉瓦工場で、この本工場は印南郡下では珍しく統廃合を経験せずに昭和48年頃まで操業を続けた。創業期には別所村や阿弥陀村にも分工場を有し、別所工場はまもなく廃業(→播陽窯業?)したが阿弥陀工場は曽根工場と並んで昭和42年頃まで営業している。後の播州煉瓦合同と双璧をなす会社といえる。

創業時には関野煉瓦工場(大正5年3月創業)の工場主である関野與平が幹事として参与していた(『帝国銀行会社要録 附・職員録(第7版)』(大正7年)。印南郡の煉瓦工場は互いに役員を派遣し合ったり独立して新会社を興したりといった関連を有していたところが多いが、大正煉瓦は関野煉瓦の関与以外に関連を持たなかったようで、ここにも双璧としての姿を垣間見ることができる。

曽根工場跡地に残る屑煉瓦の壁には楷書体の”大”を刻した煉瓦が使われている。この楷書体”大”刻印は兵庫県下各所で見られ、該社の営業圏を推し量ることができる。県下では他にも意匠化された”大”刻印もあり、これは阿弥陀工場近辺でも検出されている。ただし両刻印の分布に明確な偏りはなくどちらかがどちらかの工場の刻印というわけではないようだ。

阿弥陀村工場は台風で煙突が倒壊し、そのせいで廃業したと現地で聞いた。火が廻っていたさなかに被災したため暴風に煽られた火の粉が舞い上がって阿鼻叫喚の状況を呈したようである。


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