東洋組西尾士族就産所(西尾分局)

齋藤実堯によって設立された士族授産会社・東洋組のいち分局として設立。創始の頃の景況は『工務局月報』第17号に詳しい。東洋組創設は明治15年1月のことで、西尾工場は同年12月から建設が始まり16年2月に落成し製造を開始したこと、300人超の職工がいたこと等が記されている。また雑誌『新旧時代 第3年(2)』にはこの頃全国に興った士族授産会社の解説があり東洋組西尾分局のことが比較的詳しく取り上げられている(関口泰『明治十六年頃の士族の状況』。この一文は筆者の祖父で元老院議官だった関口隆吉が巡視した各地の士族についての調査報告書をもとにしている。この報告書は現在静岡県立図書館葵文庫に収録)。同報引用文を再引用する。

愛知県士族就産所調書抄

名称 東洋組西尾分局就産所。創立明治十五年一月

株主組織 一株金百円、年五割八分の利益金を配当す

役員月給 給料は仮額にして渾て本社東洋組より支出す
 副社長六十円、其他最高十二円二名最低六円八名平均十二円余

煉化石製造高 粘土一坪を以て煉化石千七百六十三個を製造す

一日の製造高 凡一万六千個

薪消費高 一[穴+告]一万六千個詰薪千五百七十五貫目を消費
 運賃と合せて金二十二円五十七銭 一円につき八十貫換

一個売上金高 金七厘の割

陸軍省御買上代価 船賃共にて一銭二厘の御約定
 陸軍省御約定の年期十ヶ年間

職工費 上等一人五百個日当金三十銭此等四百個二十五銭下等三百個日当十二銭五厘但目今日当金六銭より三十銭迄

職工人員 三百五十名内旧藩の頃百石以上の者七名

利益金 一日の潤益金平均金十五円
 一ヶ月二十日間の就業と見積此益金三百円

窖数 三ヶ所 横一間竪四間半、二間三間、一間半三間半

工場数 七ヶ所 横四間竪二十間三ヶ所、五間十二間半一箇所、横四間竪十六間一ヶ所、四間二十二間二ヶ所

また東洋組の就業規則も抄引用されていて興味深い。練り上げた粘土の量や成形した素地の個数によって日給で賃金が支払われていたことなどが知れる。

士族就業煉化石製造規則

方今諸県下士族の生計上を達観するに織らず耕さず徒らに金禄公債の利子を待て過活し其利子を以て家計に足るもの百中の一二に過ぎず其他は月に幾分の不足を生ずべし而して其補となすべき産業の路を需むることなく終に金禄公債證書を手放し或は目下に飢寒の身に迫りたるもの少なからず然るも古来廉恥を以て養成したるが為め羞悪の心に覊され世間に対し賤業を取るは情実死に換ゆるも為し難く空く其営業上に惑うものあり士族の困難此時より甚しきものなし幸い我組煉化石の製造は苟も国家の開闢関錀となるべき砲台建築の用品なれば士族に屈強の営業なるに由り諸事業をして本県士族の産業となしたり曾て檜了介氏の談しを受け亦今回東京に於て我師宇都宮三郎氏より固く同議を託されたるが為め先般同氏の懇諭に基き開設されたる本県士族生産談話会員にして其営業を需むる輩あらば同会会頭の報知を得て我組煉化石の製造方をなさしめ就業の最初より幾分の日給を与え必然生計の一助となさしむるを要とす因て方法規則を立つること左の如し
 東洋組組長
齋藤実堯
明治十五年第九月

第一条 製造方科目
粘土煉り方の事
煉化石型詰め方の事
同乾燥方の事
同窖詰め運送方の事
同窖入れ積立方の事

第二条

日給表
一等日給 三十銭
一日に付煉化石七百廿個分の粘土を煉上げる者同四百八十個の煉化石を型詰めする者
二等日給 二十五銭
 六百個分煉上げ四百個型詰め
三等 二十銭
四等 十五銭
五等 十二銭
六等 八銭
 粘土煉上げ 百九十二個
 型詰め 百二十八個
 窯に運ぶ 六百個
 窯の中へ積立 八百個
 煉化石を乾す 二百六十六個

後者規則は刈谷分局にも共通するものだったと思われる。実際東洋組製造品を示す刻印が押された煉瓦には識別印とみられる印□+漢数字が押されたものがある(水野信太郎『国内煉瓦刻印集成』)。製造した個人を判別できる印を押し、その個数によって日給が支払われていたということだろう。この作業者識別印については別カテゴリを参照の事。

『西尾市史』第4巻には工場関係者から寄贈された書簡や書類などを典拠として比較的詳しい解説が書かれている。曰く、齋藤が陸軍省に提出した見本品は同種の応募の中でも最上級とされ、陸軍省買上げが決まっていたが(実際納入され猿島砲台などに使用されている)、東京湾要塞以外の要塞計画が凍結されたため販路を失って苦労した。かわりに皇居造営用の瓦や煉瓦の生産で糊口を凌いだものの、工賃払いの延滞が続くなどして士族間に不満が高まっていき、明治18年7月には新たに「天工会社」を設立して煉瓦製造を続けたという。東洋組の他の工場でも明治18年頃に休止したり廃業したりした所が多く(例えば田原のセメント工場など)、この頃に東洋組自体が解体してしまっていたようである。西尾工場は明治19年3月に再び改名し「精成社」となったが、時を置かずにこれも解散し西尾士族生産所となった(以下”西尾士族生産所”カテゴリー参照)。

東洋組西尾分局時代の製品は西尾市街のはずれにある工場跡地の近傍で断片数個を検出した。焼きが甘く表面の風化も進んでいるものである。一方で西尾市教育委員会収蔵品は平まで焼過気味に焼かれたしっかりした煉瓦であった。刈谷か西尾かは定かでないが、東洋組時代には野焼き法で焼成していたという記録があり(『日本工業史 化学編』)、まさしくそのようなムラのある製品だったようである。また東洋組時代には瓦や函樋も製造しており、函樋の一部が市に保管されている。

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