”○+英字”刻印

JR東海道線の向川暗渠の東面で検出。普通厚の煉瓦で巻かれた1@5ftのアーチ小口に打刻され、ここでは”○+I”と”○+D”を見ることができる。東海道線半場川橋梁(静岡県・天竜川橋梁の西)や直江津線旧坂口新田トンネルで検出されている”○+B”刻印と同系統のものとみられる(下図参照。『鉄道と煉瓦』p.45より引用)。

湖東線荒砂川暗渠(近江八幡市池田本町)でも”◯+D”や”◯+F”を、冷樋川暗渠では”○+C”を検出。両暗渠は比較的小径のアーチで普通サイズの煉瓦が使われている。ただしこの暗渠の近くにある、普通サイズ煉瓦で巻かれた知神川暗渠(1@6ft)や里川暗渠(1@4ft)等では見られない。複線化時の拡幅の仕方や積む際の注意/不注意も関係してくるだろうとは思うが、少なくとも全ての構造物に採用されていたわけではないようだ。また該印煉瓦が使用されている構造物でも構造全体にそれが採用されているとは限らない。蛇原暗渠などは”○+英字“刻印が確認できる煉瓦とそうでない煉瓦とで厚さが明らかに違う。”○+英字“は厚56mm前後、無刻印は52mm前後のものが多く、それぞれ2-1/4”厚と2”厚を意識して作られたものと思われる。

”○+英字”刻印が確認できた構造物をまとめると以下のようになる(その他に検出された小口印も含む。”○+カナ”印カテゴリも参照されたい)。中でも”○+D“刻印の検出数は多く、打刻によって摩耗していったさまを窺い知ることすらできて面白い。

名称

規模

検出印

打刻煉瓦

着工年月
(『財産目録』)

竣工年月
(『明細録』)
黒姫駅(柏原停車場)ホーム

1@6ft

Ⓑ、Ⓒ、Ⓓ、Ⓘ

肉厚

M19.6.※

M19.11.※

山田下暗渠

1@6ft

Ⓑ、Ⓓ、Ⓕ、Ⓘ

普通

M19.5.

M20.8.(『財産目録』M21.9.)

半場川橋梁

1@15ft

Ⓐ、Ⓑ、Ⓓ、Ⓕ、Ⓘ

普通、肉厚

M20.1.

M20.12.

梶田避溢橋

3@12ft

Ⓐ、Ⓑ、Ⓒ、Ⓓ

肉厚

M20.1.

M20.12.

坂口新田トンネル

単線

肉厚

M19.8.

M21.3.

九作暗渠

1@6ft

普通

M19.5.

M21.5.

無名暗渠@御津

1@4ft

Ⓓ、Ⓕ

普通

(M19.5.)

M21.5.

広畑暗渠

1@10ft

肉厚

M19.5.

M21.6.

宮川暗渠

1@6ft

Ⓑ、Ⓓ、Ⓕ、Ⓘ

普通

M19.5.

M21.6.

海三場川暗渠

1@8ft

肉厚

M21.3.

M21.7.

鯉川橋梁

1@12ft

キ、メ

肉厚

M21.3.

M21.7.

荒砂川暗渠

1@6ft

Ⓓ、Ⓕ

普通

M21.5.

M21.8.

島田川暗渠

1@6ft

Ⓓ、Ⓕ、Ⓘ

普通

M21.5.

M21.9.

塚町暗渠

1@6ft

Ⓕ(暗渠内転石)

普通・市古製印

(M21.5.)

M21.9.

下ノ沢架道橋

1@6ft

Ⓓ、Ⓕ、Ⓘ

普通

M21.5.

M21.10.

エッタ川暗渠

1@6ft

Ⓓ、Ⓕ

普通

(M21.5.)

M21.10.

市三宅田川暗渠

1@8.1ft

Ⓑ、Ⓓ、Ⓕ、Ⓘ

普通

M21.5.

M21.10.

蛇原暗渠

1@4ft

Ⓓ、Ⓕ

普通

(M21.5.)

M21.10.

伊勢道川暗渠

3@6ft

Ⓑ、Ⓓ、Ⓕ、Ⓘ

普通

M21.5.

M21.11.


冷樋川暗渠

1@5ft

普通

(M21.3.)

M21.12.

向川暗渠

1@5ft

Ⓘ、Ⓓ

普通

(M21.3.)

M22.1.

向山尻暗渠

1@4ft

Ⓑ、Ⓓ、Ⓕ、Ⓘ

普通

(M21.6.)

M22.3.



※『財産目録』の柏原駅の項目には乗降場が挙げられていないが、駅舎や湯呑所、ランプ室などの主要物件がこの着竣工年で作られている

※()は前後の構造物の着工年から推測

滋賀県下の構造物で濃厚に見られることから県下の工場の製品かと想像していたが、あにはからんや愛知三河の市古工場の製品であった。塚町暗渠内で採取した転石には市古工場の印とともに”○+F”が打刻されており、同工場の用いていた識別印であったことが知れる。この暗渠はもともと水深が浅く水量もほとんどなかったようで坑内に複数の煉瓦片が転じたままになっている(検出例の少ない”五光丸”刻印煉瓦もあった。この刻印は明治30年以前の建造物の周辺で検出されており複線化時の残余物ではなさそうである)。ほとんど記録に現れないこの工場の製品が大量に存在し、隣県のみならず新潟まで運ばれていたことは大変興味深い。またその煉瓦がどのようにして現場まで運ばれたかも検討のしがいがある課題である。

『西尾市史』には東洋組西尾分局が設けられる以前に新川町で試作が行われたことが書かれている。市古工場のあった北大浜村は新川中心街の北隣に位置し、この試みが継承されて個人工場として成立した可能性を窺わせる。『碧南市史』第2巻にも明治16年頃に煉瓦製造が試みられたという記述があり、続いて市古氏が瓦用のだるま窯の流用ではなく『れんが焼き窯を築造して』製造を始めたとある。この時期刈谷の大野工場では岸和田から職人を招いて岸和田流の煉瓦焼成窯(登り窯を煉瓦用に改良したもの)を建設していた。それが市古工場にも採用されていたのかも知れない。事実東海道線で見られる”○+英字”刻印煉瓦は京阪神で見られる明治後期の手成形煉瓦によく似た美しい煉瓦色をしており、なおかつ部分的に焼過となり暗紫色~黒褐色に発色したもの、全体としてまだらになった煉瓦が多く含まれている。これは登り窯焼成特有の焼き上がりである(ホフマン窯で焼いたものはもっと均等な赤色主体の発色をする)。この違いは同じ暗渠のオリジナル部と延伸部とを見比べるとよくわかる。

東海道線工事の最初期に着工された半場川橋梁ではアーチの普通煉瓦を中心に肉厚煉瓦にも数点の打刻を認めた。”○+A”は肉厚煉瓦に打刻されたもので湖東線では未検出のものである。また向かって右側のアーチの根元付近に”○+B”とともに”市古製”印を打刻したものが使われている。

東海道線では”○+英字”の他にもいくつかの小口印が認められた。東近江市能登川の海三場川橋梁(1@12ft)東側オリジナル部のアーチには肉厚煉瓦の小口に”○+シ”を打刻したものを検出するが、これは東海道線鷲津~新所原間の煉瓦構造物に多数使われており、同様に市古工場が採用していた識別印であったようだ。詳細は”○+カナ”印カテゴリ参照。

さらには海三場川橋梁よりひとつ上手の鯉川橋梁では肉厚小口に”キ”、”メ”の刻印を見る。印の幅は○と同じ約1cmで、これも同系列の刻印と見るべきだろうか(イロハ順ではキ=38文字目、メ=40文字目、シ=42文字目と末尾に近く、作業者が増えイロハを使い尽くす見込みになったため英字に切り替えていったと見れなくもない)。これと似たカナ印(但し平打刻)は石部トンネル前の無名暗渠でも確認されている。

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