堺附洲煉瓦

明治22年頃に堺市大浜通3丁(堺市中附洲新田)に個人工場として創業、M25頃?有限責任会社となったあと明治26年12月29日株式会社登記(『商業登記会社全集』(明28.9))。大阪毎日新聞M21.7.3朝刊2面記事にある「附洲商社」もこの会社か(この頃同業組合に加入)。文献では明治30年頃まで操業を追える。

有限責任会社時代は代表社員:太田平次(堺銀行頭取、河陽鉄道社長)。株式会社時代の専務取締役・野田吉兵衛は後に日本煉瓦創業時の社長となっている。野田吉兵衛も窯業家ではなく実業家で、同社以外にも種々会社の発起人になっている(鈴木恒夫「明治期におけるネットワーク型企業家グループの研究」)

堺市附洲(戎島附洲新田、中附洲新田、南附洲新田)には多数の煉瓦製造所が興ったが、社名に「ツキス」が入るのは堺附洲煉瓦だけで、同刻印もこの会社のものと推測される。堺市市街、神戸市山手異人館街の空き地などで転石の検出例あり。ただし由良要塞構造物ではこの刻印を見ない。

また堺附洲煉瓦の操業より前、同住所で稲葉組が稼働していた。さらにその前には大谷工場が所在。大谷工場→稲葉組→堺附洲という継承があったのかも知れない。


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