明治37・8年頃の大阪の煉瓦製造業(『工業之大日本』掲載記事)

一 総提
二 沿革
二 沿革
三 丹治煉瓦製造所
四 大阪窯業株式会社
五 岸和田煉瓦株式会社
六 堺煉瓦株式会社
七 貝塚煉瓦株式会社
八 津守煉瓦製造所
九 日本煉瓦株式会社
十 煉瓦同業組合の事


出典:工業之大日本 1(4) 1904-11 pp.54~56

大阪府下に於ける煉瓦製造業 小泉王勁

一 総提

◎地方人士が我が大阪へ遣って来て、先ず喫驚するのは煙突の多い事だと云う、煙突の下必らず工場あり、工場の設備には必らず多少の煉瓦が使われて居る、其他洋風の建築物に、鉄道に橋梁に煉瓦の使われて居らぬ所は無い。
◎元来日本固有の建築法は、其の構造と云い、配置と云い、概ね風流雅致を旨として、却って堅牢耐久と云うことを忘れて居るらしい、尤も寺社仏閣や城郭など、特殊の建築法のものは素より問題外として置く。
◎事新しく言うまでも無いが、建築の要は生命財産の安泰を計るべく、地震、雷り、火事、洪水などの災害を防ぐに在るのだ、しかも我邦の建築は此点に於て、欧風の建築に一歩を譲ると云っても宜しい、近ごろ欧風建築物が続々として起るもこれが為めで、国運の隆興、人文の発達と共に、将来ますます欧風の建築が流行するのは当然である。
◎併し欧風建築上主なる材料たる煉瓦に就て、世人は未だ嘗て多くの注意を払うて居らぬらしい、松、杉、欅、桧、または根生川、御影などの木材、石材を知って居るだけ、それだけ煉瓦を知って居のが覚束ないのものである、予近ごろ事によって頗る知遇を府下の煉瓦製造家に得、見るところ聞くところ亦尠からず、茲に少しく煉瓦製造業の大体を記述し、初心の人々の参考に供えようと思う、若しそれ識者の苦笑に値いするに至っては、予に於て已に覚悟の前の事である。

二 沿革

(1)外国煉瓦の沿革

◎煉瓦の製造は外国では最も古くから行なわれて居るらしく、已に旧約聖書の中にも所々煉瓦という文字が見える、彼の有名なるバベルの塔、及び巴比論(ばびろん)に於ける家屋の如き、皆な完全なる煉瓦を以て築造せられた跡がある、又ダビット王がアムモンの子供をして煉瓦の窯の中を通過せしめたと云う旧紀もあり、旁々余程古くから始って居たことが証拠立てられる。
◎それから埃及のナイル河畔に屹立せる三角塔の内にも、まだ焼いてない煉瓦を以て築いたものがある、其原土は小砂利と貝殻とを混じた黒色の粘土であって、それに細く断った藁を混ぜてある様だと云うてある。
◎降って希臘羅馬等の古代建築物を見ると、これ又焼いた煉瓦、焼かぬ煉瓦を併用して居る事実があると云うし、ビトルビヤス氏の記事によれば「羅馬では煉瓦原土の良好なるものとして粘着力に富める柔靱性粘土を撰み、その焼成の時季は春と秋が最も佳いとして居る」と書いてある。
◎四世紀の末より五世紀に至り、羅馬が蛮族の侵略を蒙る前後に於て、建築術を初め煉瓦製造術の如きも、亦た他の文物と共に四鄰に伝わり現に西班牙、仏蘭西、英吉利、独逸等の各地には、今尚お当時の建造物の遺跡を存じて居る、実地に就て見たものの説には、其建築法の技術的なるのみならず、それに使われて居る煉瓦の堅牢で耐久性に富んで居ること、当時如何にその製造術の発達して居ったかを想像することが出来ると言って居る。
◎しかも羅馬の衰亡後、煉瓦製造業は一時甚だしく衰頽に赴き、拾弐世紀頃から漸次回復の機運に向ったけれども、中ごろの大頓挫の為め製造術の進歩はハタと止まり、殊に此事業が概して無教育の者共の手に委ねられて有ったから、技術上の発明とか、科学の応用とか云う事は毫も行われず、唯だ伝来の遺法を墨守すると云うに過ぎなかったが、十九世紀の中ごろに及び、斯業に対する各種の発明は先ず独逸国に於て行われ、忽ち世界に流伝して、遂に今日の盛況を呈するに至ったのである。
◎その発明は先ず輪焼窯(丸窯)となって現れた、実に壱千八百五十四年一月に特許を得たドイツ人フルマン氏で、氏は煉瓦製造業中興の祖というべきものであるが、之を大成して世界一般に流伝せしめたのはホフマン氏である、是れは千八百五十八年五月に特許を受けた、爾来幾多の改造を企てたるもの諸国に少なからずと雖も、概ね該式の範囲内を脱せざるもので、現下煉瓦窯としてはホフマン式を推さねばならぬ。
◎次は素地成形機の発明で、同じく独人シリッグ、アイゼン氏の特許を受けたもので、爾来幾回の改良を経て遂に今日の如き完全なるものとなった。
◎次は人工乾燥法の発明である、天日で乾かすということ別に悪いと云う訳ではないが、或いは気候の為めに制せられて雨期厳冬など甚だ差支えを生じ、或いは時日を要して秩序的製作に応じ難く、間々不良の影響を製品に及ぼすので千八百八十三年独人コール氏は之に対する良法を発明して特許を受けた、素これ焼窯の余熱を利用するもので、設備の簡易なる割合に、効果頗る偉大なるものあり、其他コール氏式を基礎として、種々の乾燥法が発見せられた、カンマー式、モルレン式、ケーレル式等皆な此類である。
◎西洋の沿革は先ずこんな事にして、扨東洋は如何と云うに、印度の如き、古代より完全に焼き成されたる煉瓦があって、而かもこれには最も緻密な装飾を施し、品質なども現今欧米諸邦の製品よりも優って居るようである、印度、爪哇などに残って居る遺趾や古趾には、明らかに之を証拠立てる旧煉瓦が有る、又支那、朝鮮などは、古来磚と称する黒く焼上げた煉瓦と、陶器のように釉薬を施けた煉瓦などを製造し、盛んに之を建築用に供したようである、現に秦の始皇の遺物たる万里の長城を初め、北京、天津其他各地の城壁や朝鮮の王城等は、皆この磚を用いて居る、その大さは長一尺五六寸、巾六七寸、厚三四寸のものが多く、又その煉瓦を製造する焼窯は諸所の山腹に築いたもので、その上部が開いて居る、焼揚の方法は英国式のクランブ(野天焼)に似たやり方だという、尚お此他に焼かずに使って居る煉瓦もある様子であるが、是主に壁の中心に使って居る。

(2)本邦煉瓦の沿革

◎上に述ぶるが如く煉瓦の沿革は東西各国ともに頗る古いけれど、史乗の逸するところ未だ十分これを審かにすることが出来ないのを遺憾とする、併し茲に尤とも異例というのは、我邦では古来未だ曾て今日の所謂煉瓦のごときものは見ないのである、唯だ建築材料として稍や煉瓦に似た瓦があったばかりである、古史に用明天皇の御宇、百済王から四人の瓦師を献じ、その製法を伝えたとして有る、で、瓦は有っても煉瓦はない、近く維新前まで煉瓦とはどんなものだか夢にも知らなかったのである、是れ素より気候風土の温和なる為め、建築の制度が外国と異ているからでもあろうが、また我国が森林に富んで木材の供給豊かに、絶えて建築材料に不便を感じなかったからであろう。
◎明治維新後、百般の文物制度すべて範を泰西に採ることになったので、諸官衙の建築や、鉄道の敷設や、是非共欧風にやらねばならぬ必要が起った、ソコデ関西に於ては明治二年、阪神間の鉄道敷設に付き、其材料を供給すべく、工部省鉄道寮という名称の下に、堺市住吉橋通り旧函館物産会所および姫路産物会所跡で、外国人を技師としてダルマ窯というもので製し出したのが濫觴で、関東に於ては明治の五年、大蔵省建築局の事業として、当時の土木頭高石某と傭外国人をして、浅草区橋場町真崎稲荷の地先旧百銭座跡、則ち曾て天保□を鋳造した所で、極めて不完全な焼窯を設けて製り出したのが嚆矢である、故に煉瓦事業に就ては関西実に関東より三年の長ありと言うが適当である。
◎東京を中心としての関東煉瓦界の発達史は、別に書く人が有ろうと思うから、予は茲に堺市を中心としての大阪府下の煉瓦製造業に就て語らねばならぬ。
◎明治の二年に工部省鉄道寮が堺に起ったことは前にも言った、其時使ったダルマ窯と云うは在来の瓦焼窯の一方口にしてようなもので、燃料として、松葉や松薪を用いたものだ、それで煉瓦などと言って居たのは役人等だけで、其所の職人や世人は主に麭麺瓦(ぱんがわら)と称えて居た、何故ぱん瓦であるか、理由は伝わら無いが、そう云って居たのは明白である、其頃の煉瓦の寸法は長さ七寸、巾三寸二分、厚さ壱寸六分の小形のものであった、で此の官営事業は首尾よく阪神間鉄道の所要を充たせ、又た造幣局の建築材料をも供給し了ったので、明治の六年鹿児島の人原口亀太郎、同仲太郎に払い下げ、原口等は永井某と組合って頻りに煉瓦を製出したが、数年ならずして廃めて了った。
◎工部省鉄道寮が起った翌年、即ち明治の三年府下泉北郡舳の松村で代々屋根瓦の製造をやって居た丹治利右衛門(今の丹治氏の先代)が自家の瓦焼窯を利用して煉瓦を造り出した、これが我邦煉瓦民業の鼻祖である、之に次いで其付近数十の瓦師は、言い合したように煉瓦製造を始めたが、概ね半年位の寿命で敢なく寂滅したのである、尤も其頃の製造法も窯こそ違え、今の手抜きと大差なく、素地は受負人の手に成り乾燥(俗に庭廻り)は定雇いでやったものだ、そして其頃の価格は千個五両位の相場であった。
◎それから児玉、花岡、佐藤、成金舎、稲葉組など、従って起り従って仆れ、混沌たる事殆んど十年、明治十五年に至って漸やく有力なる煉瓦製造所が出来初めた、が、それは随分長い話しであるから次号に譲ることとする。


出典:工業之大日本 1(5) 1904ー12 pp.56~59

大阪府下に於ける煉瓦製造業(其二) 小泉王勁

二 沿革

(2)本邦煉瓦の沿革の続

◎明治十五年の一月になって、大阪窯業株式会社が大阪の川南に起った、創立当時は坩堝、耐火煉瓦、硫酸瓶などを主に製出して居たが、追追普通煉瓦の需要が増すに付き、期年ならずして専門の煉瓦製造会社になったのである、彼のホフマン式輪環窯のごとき、已に二十一年に於て始めて採用せられたと伝えられて居る。
◎次で起りたるは旭株式会社である、場所は堺市柳の町三丁で、一時は中々盛んであったようだが、三十四年の煉瓦界の大あらしに、あわれ倒壊の運命を共にした。
◎それから岸和田煉瓦株式会社の起ったのが二十年の七月で、堺煉瓦株式会社の前身たる共立煉瓦会社の起ったのが二十二年の八月である、尤も此前後に小工場小会社が起っては仆れ、仆れては起ったものが、年々大抵五六ヶ所づつは必らずあったものである。
◎二十七年四月、貝塚煉瓦株式会社が起った、素これ岸和田煉瓦の分身たるに過ぎないのであるが、母子共に健全で真に結構である。
◎それから三十年の六月に、泉北郡舳松村に、日本煉瓦株式会社が起り、西成郡津守村に、津守煉瓦製造所の前身たる津守煉瓦株式会社が起った。
◎日清戦役後の産業界の興奮というものは実に素晴らしいもので、往々病的発作とも見ゆるものがあった、従って二十九年末から三十年にかけて、大阪府下に夥だしく煉瓦事業が興った、即わち同年末に於ける統計に徴すれば、実に三十二会社、十九個人と註されて居る。
◎恰かも雨後の茸の如く、暴かに殖えた是等多数の煉瓦会社は、原来確固たる成算があって起ったものでは無い、需要が若干、供給が何程と云う勘定も何もあるものか、拵らえさえすれば買い人があろうと云ったような楽天主義で始めたのであるから、是等多数の会社や工場の製産力は優に一億五千万個以上なるにも拘わらず、社会の需用は此製産力に伴わず、僅々五七千万個を購買するに止まると云う実情であるから、行立ちそうな道理が無い。
◎しかのみならず、二十九年の秋、稀れなる大暴風雨があって、多くの煉瓦窯、製造工場を吹き破り、休業の止むを得ざるに至りし結果として、一時著るしく煉瓦の価格を高め、千個六円台より十二円台に飛勝った、此非常なる天災価格を標準として、十露盤を立てた事業であるから、価格は遠慮なくドシドシ下る、供給過多の結果投売は始まる、斯うなると如何しても廃めて寝て居た方が損が行かないと云うことになる、果然三十一年から三十四年までの間に、不健全なる多くの会社、工場は悉く倒産の不幸を見たのである。
◎大阪府内務部第五課の調査にかかる統計表に於いて、三十一年末現在の分と、三十三年末現在の分とを較査すると斯ういうことになる。

株式会社の部
三十一年末 三十三年末
●大阪窯業 西区川南 堺市南附洲
日本耐火 同江戸堀北
天王寺煉瓦 南区天王寺
●津守煉瓦 西成郡津守 <//td>
三島煉瓦 三島郡茨木
光島煉瓦 豊能郡豊中
堺市柳ノ町
●堺煉瓦 同吾妻橋通
南海煉瓦 同神野町
●岸和田煉瓦 泉南郡岸和田
●貝塚煉瓦 同貝塚
麻生郷煉瓦 同麻生郷
泉南煉瓦 同南近義
小栗煉瓦 同麻生郷
泉陽煉瓦 同佐野
桃山煉瓦 同沼野
明治煉瓦 泉北郡高石
●日本煉瓦 同舳松
河内煉瓦 南河内富田林
中河内煉瓦 中河内瓜破
河州煉瓦 北河内住道
河内赤山 同甲可
北河内煉瓦 同水本
富士煉瓦 同今津
合資会社及個人の部(三十一年末)
阪堺煉瓦合資会社 東成郡黒江村
日本煉瓦製造合資会社 東成郡黒江村
泉州煉瓦合資会社 泉南郡沼野村
綱盛幾松 東成郡黒江村
中村徳次郎 同 同
森本小兵衛 同 同
太田平次 堺市中府洲新田
●丹治利右衛門 堺市少林寺町東三丁、泉北郡舳松村
合資会社及個人之部(三十三年末)
●丹治利右衛門 泉北郡舳松村
北村市松 東成郡鯰江村
伊藤定吉 同 黒江村
広瀬倉平 西区湊屋町
横山善三 南区難波稲荷町
尾崎清七 西区成郡勝間村

(nagajis注:●は圏点)

◎ザットこんな工合である、表中圏点●を付したるは、現に営業を継続し来りて、命運愈々昌んに、所謂大阪府下煉瓦製造業者の粋たる者であって、その他は已に絶滅に帰したるもの、纔かに命脈を続くるも、微々言うに足らざるものなどである。
◎堺市に煉瓦業の組合事務所があって、各社、工場の気脈を通じ、行動を共にし、営業上得て生ぜんとする弊害を杜塞せんことに努めて居るが、現に組合に加入し居るは左の五社二個人である。
大阪窯業 岸和田煉瓦
旭煉瓦 貝塚煉瓦
日本煉瓦
丹治利右衛門 津守煉瓦製造所
◎以上は堺市を中心として、大阪府下に於ける煉瓦製造業の略沿革であるが、翻って東京地方の斯業の沿革を見るに、明治五年、大蔵省建築局が時の土木頭高石某をして、浅草区橋場町の真崎稲荷の地先に、尤も不完全なる瓦窯を応用して米国人などを抱えてやり初めさせたが、窯の築き方がまづかった為め不成功に帰し、二年の後廃めてしまったが、次で平松某なるもの、起業資金を政府より借り受け、建築局の雇技師オードロス氏まで借りて、房州石を以てホフマン式の焼窯三基を、現時の集治監の箇所に築き製煉社と名けてやろうとしたが、焼窯の出来上る前に資金が欠乏し、遂に川崎八右衛門、福富六郎右衛門(山内家の人)両氏に譲り渡し、両氏は此焼窯おのおの一基づつを所有し、残り一基を大分の人深沢勝興に譲り、鼎立して斯業に従事した。
◎時恰かも西南の乱に際会し、一般社会の不景気はここに煉瓦の需用を杜絶し、とても民業では持ち切れぬことになり、遂に三人の持分の全部を合して五万円で警視庁監獄局へ買上げて貰った、是れが東京集治監に於ける煉瓦作業の由来である。
◎併し是等は大仕掛なものの沿革で、東京煉瓦業の発達は決してこんなものではない、明治七八年銀座の煉瓦街をこしらえる時代には、向島から本所一円の瓦職は、殆んど全部煉瓦の製造に従事して無数の煉瓦を焼き出し、首尾よく銀座通りを作り上げた、当時此付近の小工場は実に百三十七箇所有ったと云う事である。
◎それから丸窯に代って一時斯業者間に重視せられた登り窯は、明治十三四年頃、右の小菅集治監が三河から、職工を雇い来りて、陶器窯に模して拵えたを以て嚆矢とすと、東京地方では言って居るが、大阪府下では泉州一帯に散在せる土管製造人が、自家の焼窯に些少の増補を行うて殆んど無意識に此の登り窯を使用するに至ったのである、これが明治七八年の事であるから不思議ではないか。
◎東京地方の煉瓦製造業は、登り窯の発見と共に年々秩序ある進歩を為し、明治二十年日本煉瓦製造会社の起るに及んで、盛んに新式の輪環窯、その他各種の機械を採用して斯業の紀元を作ったこと、猶お我が大阪窯業株式会社が、首として新式の窯、機械を採用して、革新の運命を開いたと同一である、但し東京は大阪に比し創始時代に於て一壽を輸したりと雖も、発達の時期に於て数歩を贏ち得たるもので、此点は学術の淵叢、文化の泉源たるお蔭に相違ない、併し目下の所、その生産の額に於ては確かに大阪地方の方が勝って居るのである。
◎それから参河、尾張地方の煉瓦業、兵庫県以西の煉瓦業など、それぞれ多少の経歴を有すと雖も、主題が「大阪府下の煉瓦製造業」と云うのであるから、是等の地方は省略し、現に斯業の粹を以て称せられ居れる、五社二個人の個々に就き、其の現況を調べて見よう。

三 丹治煉瓦製造所

◎丹治家は此地方に於ける旧家の一つである、世々瓦の製造を業として、数十代連綿たるもの又た泉州名物の一たるを失わぬのである、五百年前堺の三ッ村寺 大寺)建築の砌り、屋根瓦を調進したと云う旧記を持って居て、雄図四海を掩う豊公の大阪築城に就ても、丹治家が貢献したところは尠からぬことであろう、元和偃武の後に至ても、丹治家は世々大阪城代の愛顧を蒙り、瓦御用達として相応の格式を有って居たものである。
◎明治の三年、時世の要求に従い、始めてパン瓦即ち煉瓦石を自家の瓦窯で焼立てたのは、今の利右衛門氏の父の利右衛門氏である、尤も当時の煉瓦業は、瓦屋が瓦の合間に焼いたものだそうで、勿論常職にはならない、それ造幣局からパンの注文が出たと云っては始め、ヤレ砲兵工廠から赤瓦 煉瓦の異名 を言うて来たと云っては始め、納めて了えば又屋根瓦に取ってかかる、言わば一時仕事の間に合わせであった、これが煉瓦工場に限って立派な建物がなく、仮普請の板囲いでやって居る原因である。
◎先代利右衛門氏は非常に闊達な性質で、しかも煉瓦事業には多大の趣味を持って居た、で、舳松村の現工場一ヶ所では満足せず、明治六年少林寺町東三丁の引接寺を買収して、そこに一つの煉瓦工場を建てた、尤も此れは先年学校敷地に充てられて取払って了ったが、大阪式登り窯は、実に当年ここに於て発明せられたのだと云うことである。
◎先代利右衛門氏の煉瓦に対する趣味は、まだこれでも満足されなかったと見えて、明治十六年、井上勝彦と云う人と組合て、堺煉瓦会社と云うものを起した、これは主に呉鎮守府の需用に応じたもので、天神橋の橋杭も亦た此の会社の製品で出来上ったものである、しかも営業約五ヶ年、都合があって廃めて了った。
◎先代利右衛門の一生涯は、実に此の煉瓦という新事業を以て一貫し、化粧煉瓦製造の翹楚となり、登り窯の創始者となり、その他斯業の発達進歩に就て貢献したところ、決して少くはなかったが、惜しや明治の二十八年に至って没去して了った。
◎代って立ちし当代の利右衛門氏は乃父の遺業を完成して、範を後昆に垂るるの重責ある人である、果然虎の児は犬にならず、創業守成の才、両つながら之を具有し、世と共に推移るの能力は、学ばずと雖も知って居て、多くの資本と多くの才能とを集中したる新進株式会社の発達と角逐して、多く遜色を見ざるのみならず、果断専決のり弁を有するだけそれだけ、誰れに遠慮も気兼もなく、斯業の進歩と共に進歩して来たのである。
◎三十二年、始めてホフマン式輪環窯の十四室を有せるものを採用し、旧式の登り窯を廃して了い、三十六年に至って再び同式の窯十六室を有せるものを築造した、ここに至って一ヶ年の産額実に九百六十万個に上ることになった、工場の広袤約一万二千坪を測ることが出来る。
◎生産額は増すに就け、漸く不便を感じて来たのは原土である、一年反正天皇の御陵の西北に極めて煉瓦に適当せる原土を発見し、之を用いて多々益々堅緻精巧なる煉瓦を作り出そうと試みたが、交通不便にして其意を果さず、数年望蜀の嘆に堪えなかったのであるが、客秋来鋭意軽便軌道の修築に熱中し、本春に至って漸く自家工場と原土所在地とを連結することが出来たのである、従ってこれから先の改善進歩は刮目して待つべき価値があろうと思う。
◎勿論在来各種の博覧会、品評会等に出品して名誉ある賞牌を受領したのであるが、何だか提灯持のようで面白くないから、ソックリ預かって置く。
◎挿図は三十二年第一期ホフマン式輪環窯築造の当時に撮影せしもの、煙突が一本しか無いのはそれ故である、先ず当所はこれ位にして、次の大阪窯業会社に移ろうと思う。(未完)

写真キャプション:丹治煉瓦製造工場


出典:工業之大日本 2(1) 1905-01 pp.58~65

大阪府下に於ける煉瓦製造業(其三) 小泉王勁

四 大阪窯業株式会社

◎今日大阪府下に現存せる工業会社中、最も古きは西区川南の大阪アルカリ株式会社で、実に其創業は明治十三年の四月である、二番目は即ち我が大阪窯業株式会社で、実に同十五年一月の創立である。次は大阪紡績株式会社で、十六年の四月、次は印刷所の大阪国文社で、同じ年の十月である。
◎アルカリ会社と窯業会社は、同じく西区川南で隣り合せであったが、煉瓦専門になってから便宜上現今の堺市南附洲新田へ移転したのである、これ実に明治三十一年の出来事である。
◎此社は当初より煉瓦専門の会社でなく、寧ろ坩堝、硫酸瓶、耐火煉瓦などの方が本業であったのだが、明治二十一年の頃、他に卒先して早く已にホフマン式環窯を採用した程の進歩的工業会社である。
◎現今の会社工場は明治二十九年三月の起工に係り、同社の堺分工場として興したものが、必要上本社になって了ったのである。現に大阪府下の煉瓦製造業者中、尤も進歩せる設備を有せるは、此社の特徴であって、また大阪府の誇りである。

写真キャプション:大阪窯業会社素地成形機

(1)特長

◎特許窯を用ゆると 同社は技術長兼支配人たる大高庄右衛門氏発明の、特許番号三四〇四のホフマン式輪環窯に、更に特殊の改良を施したる煉窯を用い、余熱の利用に就て些の遺憾なからしめ、以て焼成の時間を短縮し、燃料の消費を節約し、併せて熱度の均一と共に製品の齊整を必し得らるべき装置である、是レ直接には生産費用を減じて優等品を得ることとなり、間接には能い品物を安く売られると云う特徴である。
◎カッセル窯を用ゆると 前の改良窯は専ら普通の煉瓦を焼成するに用い、別に化粧煉瓦又は耐火煉瓦を焼成する為に一基のカッセル窯を持て居る、爾余の諸工場では、化粧煉瓦も亦た普通の輪環窯を応用するか、若くは旧式登り窯を使うのであるが、此社のみは別に新種の設備を存じて居るのである、是も確かに此社特長の一つである。
◎乾燥方法の完全なること 特許窯の副作用として、焼窯の余熱を利用し、最も完全し最も経済的に乾燥せしむることが出来る、此一事を以てしても、天候の如何に拘わらず乾燥に手支えることなく、着々事業を進行せしめて、納期を誤まらぬ原因になるのである。
◎成形機械を使用しつつある事 現今関西地方に於て、成形機械を使って居るのは此社ばかりである、此機械は煉瓦製造の作業中、一番面白い爽快な仕事である、先ず人夫が二三人適度に混ぜ合せた原土を一方の入口へ頻りに運ぶ、其土は或る鋼製の円筩車の間を通り越して、程宜く捏ねられて薄ッべらな土の截屑となって、機械の内部に送り込まれる運命を有って居る、此の内部には又それぞれの捏返し機械があって、順々に送られ来る土片を混合し、次第に一方の口型の方向へ圧し出す、、ここの上部に給水栓あり、始終適度の水分を之に与えて居る、扨異色の羊羹のごとき素地の塊りが、漸く截断器の上に圧し出さらるるや、待設けたる截断手は咄嗟の間に鋼製の針金より成れる截断器を上より覆せ、物の見事に切り離す、刹那の間、截断手の全面に居る運搬手が、三個の素地を手軽く抬げ、側面に据え付けある昇降機の板に載せる、其間助手は手早く針金の泥を拭い取り切る、取る拭う、筆で書くと中々手間取れるが、実は一転瞬の仕事である。それならばこそ、一日に二台の成形機で約そ五万個の素地を造り出すのである。
◎斯くして造り出されたる素地は頗る緻密に充実して居るから、焼揚げてからは極めて堅牢なものになる、従って耐圧、耐伸の力二つながら強く、吸水率も亦僅少であるから、保存に堪ゆることは著しいものである、其上機械製は形状正確、表面滑沢の特能があるから、表積の装飾用として恰好の資質を備えてある、是等は特長中の尤なるものである。
◎運搬機関の完備 此社独得の鉄道により、南海線と並行して浜寺付近より原土を搬入するのみならず、搬出に就ても各社線に連絡して、特殊の低車を以て運輸し得らるるよう特約が成り立って居る、水運の便宜に至っては無論の事である。
◎資本金十二万円(払込済 積立金二万六千九百円、建築物代償却金一万二千八百円、敷地一万五千坪、改良特許窯二基、カッセル窯一基、素地成形機二台などを重なるものとして軌道が構内構外の本線軽便線を合して約九哩、それに機関室が一つに乾燥室が無数というのであるから以て、其盛大を察することが出来よう、今左に三十一年以後に於ける製造、販売の高を調べてみよう。

三十一年度 製造高 一百一万三千五百七十六個
販売高 二百六十三万五千三百五十二個
三十二年度 製造高 四百七十一万千八百六十八個
販売高 四百十万千八百三十六個
三十三年度 製造高 八百十八万九千二百八十四個
販売高 五百二十一万五千十三個
三十四年度 製造高 九百十一万二千五百七十七個
販売高 千〇三十四万七千四百六十三個
三十五年度 製造高 千百七十四万六千六百四十二個
販売高 千三百四十六万千五百二十五個
三十六年度 製造高 千四百九十七万千九百六十八個
販売高 千五百三十三万四百四十六個
三十七年度 製造高 千八百万個以上の見込
販売高 同上

◎千八百万個の製造額を以て尚お足れりとせず同社は更に絶大な改良特許窯を築造するの計画あり、そは一室一万二千個詰二十四室より成る稀有の焼窯であって、已に敷地の取片付を為し了り、時局発展の趨向を洞見して、今や其築造に着手して居る、若し此窯にして竣功せば、同社一ヶ年の製産額はやがて四千万個にも達するであろう。

(2)実際の経営者

◎此会社の経営者は何人であろう乎、磯野良吉氏は社長ではあるが、実際の経営者ではない、同社の技術長にして支配人を兼ぬる人 即ち第三四〇四号改良窯の特許権を所有する、大高庄右衛門氏こそ実に其人である。
◎氏の半生は煉瓦製造業を以て一貫して居る、若しも日本に於ける斯業の発達史を編む人があらば、氏の如きは該史中の大立者であらねばならぬ。
◎氏は慶応元年五月、千葉県上総国山武郡大富村大字富田に生れたのである、少年時代の理想が煉瓦製造にあったかどうかは分らないが、明治十九年四月から十一月まで、東京府下北足立郡元木村隅山煉瓦工場に入りて宇都宮三郎氏に従い、同氏新案の煉瓦焼窯の築造および試焼に従事したのが、指導に遊んだ始めである。
◎同年十一月、外務省臨時建築局より建築見習の為め、独逸国へ留学を命ぜられ、同月十日発程、翌二十年一月伯林に着き、専心斯業を攻究したが、二十二年の四月政府から帰朝を命ぜられた、されど氏は専攻の課程尚お未だ卒えざるにより、引続き私費を以て留学することに決し遂に業を卒えて同年十一月三年振りで帰朝した。
◎帰ると間も無く、埼玉県榛沢郡大寄村の日本煉瓦製造株式会社の技師になって多年の研究を実地に試み、翌二十三年の第三回内国勧業博覧会に、会社より各種の煉瓦を出品し、進歩一等賞を授与せられ、又始めてカッセル式焼窯を築造して、化粧煉瓦を造り出した。
◎二十七年一月に至り、岡山県三石村三石耐火煉瓦株式会社の嘱託を受け、工場の設計および監督をなし、一種新式の耐火煉瓦焼窯を発明築造し、次いで前に居た日本煉瓦会社を辞して此会社の技師となり、翌二十八年の第四回内国勧業博覧会には同社より耐火煉瓦各種を出品して二等賞を授かったのである。
◎是より先き二十六年中、農商務省地質調査所に於て三ヶ月間地質及び原料試験法を研究し大いに得る処があったそうである。
◎二十九年の三月、今の窯業株式会社堺分工場の設計を託され、ホフマン式輪環窯に改良を加えたるものの発明築造を始め、同時に三石耐火煉瓦株式会社では、メンタイム式瓦斯輪環窯を築き揚げた、蓋し完全なるメンタイム式の窯は本邦に於ては之を嚆矢とする、又此年から翌三十年一ぱいにかけて、広島煉瓦株式会社、馬関煉瓦株式会社、高松煉瓦株式会社、東京煉瓦株式会社等の工場の設計を嘱託された。
◎三十一年ホフマン窯の改良特許の申請を為し翌三十二年四月に至て特許を得、同く十一月農商務省海外実業練習生を命ぜられ、同(三)十三年十月末練習を終えて帰朝したが、留学中主務省の嘱託により、種々有益なる調査を遂げて数次報告し我国窯業の発達進歩に少からざる貢献を為したのである。
◎三十四年一月廿一日、聘せられて現今の椅子に就き、積年蘊蓄せる斯業の智識と経験とを実際的に試みる様になり、同社をして今日あらしめたのである、三石煉瓦株式会社との関係は、未だに嘱託技師として繋れて居るの事である。
◎窯業株式会社の前途洋々として春の如き光景あることは、如上の記事で明白であろう、而して大高氏が尚お春秋に富み、同社の発展と共に多々益々創剏の天才を発揮し、斯業の進歩に貢献するところ多かるべきは、言を俟たざる所であろう、大阪窯業株式会社の事はこれで擱筆し次に岸和田煉瓦株式会社の既往と現状とを説こうと思う。


出典:工業之大日本 2(2) 1905-2 pp.60~62

大阪府下に於ける煉瓦製造業(其四) 小泉王勁

五 岸和田煉瓦株式会社

◎称して大阪府下の煉瓦製造業と云えど、事実上和泉国一円の煉瓦製造業に過ぎない、木津川畔の津守煉瓦製造所と雖も、原土は矢張り和泉国から引くのである、泉北、泉南の両郡の土壌は先天的に煉瓦製造業発達に貢献すべく、特殊の良質を備えて居る。
◎泉南郡の原土を用いて営業するもの二社、而して泉南郡に於て斯業の翹楚たり宿老たり、威望自ら一郷を圧するもの、之を岸和田煉瓦株式会社と為す。
◎岸和田煉瓦の経歴を語る前に、先ず同社の老社長山岡尹方氏の三十年来の事業を語らねばならぬ、今日の岸和田煉瓦が、十万円の資金を擁し、一万七千二百九十六坪の敷地に三基の輪環窯を据え附け、一ヶ年の産額一千八百万個に上り、絶えず一割以上の配当を為して綽々余裕あるが如き、実に山岡氏開発の力に依るものである。
◎山岡氏は旧岸和田藩の世臣である、維新後家禄奉還の結果として、滄桑の変に処するところの出来ない、周章えた窮士族に適当の産業を与えんが為め、旧藩練兵場の跡(即ち現今会社の所在地)に三個の丸窯を築き、無職業等の士族等を招致して煉瓦の製造を始めた、実にこれ明治五年九月にして、泉南郡に於ける斯業の嚆矢と云わねばならぬ。
◎併し創剏以後、明治二十年、第一煉瓦製造会社設立に至るまでの事業の経過は、決して立派なものでは無かった、寧ろ苦心惨憺たるものであった、今日得意満々たる山岡氏と雖も、顧みて当時の状況を憶うたなら、坐ろに今昔の感に打たるるのであろう。
◎焼立てた煉瓦は、造幣局へも砲兵工廠へも、又府庁へも納めた、将た又、神戸地方へも販路を開いた、されど需用者は断続して到底永久の好華主とはならず、依って拠ろなく屋根瓦なんどを副業として、只管維持策を講じたけれども、思うに任せぬことばかりで、漸次資本は喰い減らす、先にも香ばしい見込も立たないので、さしもの山岡氏も施すに術なく、我事休矣の嘆を洩し、殆んど廃業の姿となった。
◎偶々道古久米三郎という人があって、山岡氏の苦哀を察し、又た斯業の前途に多くの望みを繋け、資金を供して落日を虞淵に反そうと試みたが、これとても捗々しい結果を見るに至らなかったのである。
◎時なる哉、明治二十年の七月、山岡氏の苦節空しからず、同町の人寺田甚與茂氏を始め、五六輩、時世の推移に見る所あり、将来斯業の発達せざるべからざる運命を察し、大いに同士を糾合してここに二万五千円の原資を醵出することに決し、第一煉瓦製造会社と号して、華々しく営業を開始した。
◎越えて二十三年七月に至り、資本金を三万五千円に増加して貝塚分工場を開設した、蓋し初年の配当年一割、次年の配当年九歩、三年目に至りて年一割五分五厘、四年目に至りて年一割五分を配当し得たるより、面白みが出てきた結果であろう。
◎天道は満つるを欠く、いたづら者と知るや知らずや、増資を断行し、分工場を開いて、天佑我に在り焉と得意になったかと思うと、五年目は欠損金四千九百七十一円四十一銭六厘無配当六年目は何でも前年の損を填めてと焦るにも拘わらず、又々欠損金四千百七十八円七十銭一厘無配当、二年で九千円以上の損失を見て、驚くまいことか。
◎これではならぬと欠損金を切り捨て、一万四千円に減縮して、貝塚の分工場を田端治平氏に売って了い名も改めて岸和田煉瓦株式会社とした、是実に明治廿六年十一月の出来事である。
◎艱難嘗め来りて志ますます豪、山岡氏は既往二十有二年、悲喜こもごも味い、失意得意代る代るお見舞を受け、自然に文は質に勝たず、華は実に優らずと云う一面の真理を発見したので、それから以後は順境ばかりに処ることが出来た。
◎二十八年資本金を四万二千円に改め、初めて独逸式輪環窯一万五千個詰十八室のもの一基を築造し、更に翌年、同様のもの一基を増築し、資本金も増されて五万円の会社に成った。
◎三十五年、更に資本金を増して拾万円とし、第三号輪環窯を増築し、遂に今日の盛況を呈するに至った、ここに特記すべきは以上三基の輪環窯は悉く同町の桜井新兵衛氏(通称大新)の設計に成ったことである。

A 特長

◎同会社の製造にかかる煉瓦の特長は、一言にして尽すことが出来る、曰く、質実。
◎質実の二字は、独り会社の煉瓦をのみ説明するのみならず、会社の営業振を説明し、工場の監督振を説明し、軈ては山岡尹方氏の人格を説明して居る。
◎『見場はわるくとも為好かれ』、文華を避けて質実を取る、故に其煉瓦は土功および建築に就て、表積よりも寧ろ下積に重用せらるることを望んで居る、耐久堅牢、これ岸和田煉瓦株式会社の全幅に渉れる信条である。

B 基督教信者

◎社長山岡氏は三十年来のクリスチャンで、高齢ここに七十有三、十人の児孫を有せる一郷の長者である、彼曰く。
◎孫どもも『老る年なり、宜い加減に隠居したら』と云っては呉れますが、ナーニ人間は働く為めに生きて居るのですから、株主が『お前を信用する訳には行かぬから引退しろ』というか死んで了うかしなくっては止めない積りです、と。
◎又曰く、元来此事業は、地方窮民授産の為めに初めたのですから、終始一貫、地方の経済事情と関連しなければならない、我社微なりと雖も常に六百人の職工を雇って居ますから、彼等の家族等を数えたならば、相応の人数になります、で、会社の事業が一郷に対して軽からぬ関係を持って居る証拠には、或時此地の警察署長に斯ういうことを言われた。
◎『職工を解雇する場合には、僕の所へ案内して呉れ玉え、偶盗人を捕えた場合に、どうしてそんな悪事をした乎と訊問すると、大底煉瓦会社から暇が出たので食うに困る、ツイ飛でもない事をしましたと自白する、であるから会社に居れば盗みはせぬ、職業が無くなると初めるのだから、君の会社は悪人予防所である、会社の籍が失くなった職工は、兎もすれば僕の所の厄介になる、今後解雇の場合には事由を具して通牒して呉れぬと困る』と串戯のように言って笑われたことがある。
◎で、会社でも職工監督上に一層の注意を払うようになって独身者は使わねと云う方針を取って居る、未婚者には神の御旨に拠り適当の配偶者を媒介して遣って共働き主義を励行させる、工場へ行って御覧なさい、飯櫃がある、土瓶がある、甚だしきは襁褓が干してあって、側の畚の中には嬰児が眠って居ると云う体裁、随分見場は宜しくないが、働きに生命あり、活気あり熱誠あり、『見場は悪くも為好かれ』と云う丈夫な煉瓦は、こんな設備から出来上ります。
◎それから虚言を吐くということは、職工監督上最も困難を感ずることです、ご承知の通り数により働きに応じて賃金を支払うのに、虚言を吐かれては困ります、虚言を吐きはすまいかと思って監督しては煩しいです、これは何でも虚言を吐かせぬ工夫にせねば、神の思し召しにも背くことを(ことと)信じます。
◎で、虚言を根本より杜絶するには、虚言の不利益なることを知らしめねばなりませぬ、そこで社員のすべてを戒飭し、何人たりとも些も嘘言を吐かぬ、若し犯すものは厳重なる制裁を加えなと云うので、信賞必罰、多少の犠牲を出しましたが、今日に至りては最早虚言者の跡を絶ちましたことと信じます、云々と。
◎以上山岡氏の談話によって、読者は会社が他に卓越せる組織の下に質実の大方針を忌憚なく遂行し居ることを知悉せらるるであろう、尚お職工徒弟に対する教育上の苦心談もあったけれど、左のみはと思うて省略したのである。
◎時は本局の大発展に際会して、旅順口には鎮守府を置かれ、其他の軍事的設備も着々進行して、建築材料の大需要の起らんとする砌、岸和田煉瓦株式会社が、比較的整備せる機関を具有し、斯業界に大踏歩を試みつつあるは、泉南郡の為めに又大阪府下の為めに喜ぶべき現象と云わねばならぬ。
◎終りに臨んで記者は、満幅の誠意を以てこの煉瓦界の宿老のいよいよますます勇健ならんことを祈るのである。
次号には
堺煉瓦株式会社
の現状を掲げようと思う。


出典:工業之大日本 2(4) 1905-4 pp.39~40

大阪府下に於ける煉瓦製造業(其五) 小泉王勁

六 堺煉瓦株式会社

◎堺市吾妻橋通二丁、即ち南海鉄道堺停車場の西隣に位せる、堺煉瓦株式会社は、其前身を共立煉瓦会社と称し、実に明治廿二年の創剏であるが、二十六年現今の名称を冒し、資本金十万円(払込高五万六千円)の株式会社となった。
◎共立煉瓦時代は素より、堺煉瓦となっても暫くは、矢張り旧式の登り窯を使用して居たが、社会の風潮は到底旧套を墨守すること能わず他に率先して練習生を東京の集治監に送り、曲さにホフマン式輪環窯を視察研究せしめ、帰堺するや直ちに集治監の規模に倣いて一基の輪環窯を築造した、これ即ち堺に於けるホフマン窯の嚆矢であって、岸和田、貝塚等の手本になったものである。
◎二十九年に至って更に一基の同式の窯を築造し、外に三登りの登り窯をも併用して、盛んに各種の煉瓦を焼立て、一時は斯界の覇者を以て目せられて居た。
◎後幾年、有力なる同業者の角逐場となりたる為め、今日にては独り其名声を専らにする能わずと雖も、確かに一の勢力として、斯界に雄飛して居るのである。
◎此社が他の同業者と特異の点は、東京の集治監と同じく、囚徒の労役に待つところが多い、事である、従って大阪府の監獄制度、就中囚徒作業の監督上に於ける一張一弛は、此社の煉瓦の構成および形状の上に、著るしき影響を与う訳である。
◎労働及び手工の価格が、普通人と囚徒との間に幾千の径庭あると同時に、其効果に至りても同様の径庭あるべきは見易き道理である、而もこれ自から程度の問題であって、安いものが結局安いものになる乎は、当該管理の監督振如何によって決せらるるのである。
◎而して輓近彼等囚徒の取締りが余程寛大になったに附て囚徒たるとの、宜しく文明の徳澤に感泣し、改過遷善の実を示し、作業上にも鄭重摯実の度を加うべき筈なるに、彼等囚徒の僻み根性は、又常律を以て推すべからず、却って寛大の処置に附け上り、好いことにして怠けるので、一時はドウヤラ安いものが高いものになって著るしく品質を落したという世評が立った。
◎然るに現今の社長竹内四郎氏が直接事を見るようになってから製品の改良に満幅の注意を払い 人を各地に派して曲さに他工場のやり方を視察せしめ、一面には自ら工場に出でて幾多の職工と共に改良法を研究し、一面には又専門の学者を叩きて、焼窯その他の現設備につき意見を求め、孜々汲々として日も亦た足らざる有様である、従って製品また両三年前の比にあらず今日では余程優等な品物を出すようになったということである。
◎或いは曰く、同社の焼窯の所在地は、地台低きが為め、常に湿気の浸潤するところとなり、製品の出来栄に尠からざる悪影響を与うるのである、故に製品改良の根本的施設は、竃を築き直すより好きはなし、云々と。
◎此言たる、記者も聞き、竹内氏自身も聞きたる改良策なれども、湿気が果して煉瓦焼窯に不良の結果を与うるものに相違ないと云うことを何人も痛切に学理の上から証拠立てたものが無い、却って事実上反対の証拠は絶えず上って来る、それは外でも無い、昨年以来充分立派な満足な煉瓦が、この所謂湿地に築かれたる焼窯から、ドシドシ出来上る事である。
◎で、竹内氏もそう云って居る、私しは素人で此会社へ這入って先輩の同業者から、窯がわるい、窯を直さねば不可いと云われた時は、或いはそんなっものかとも思ったが、先ず窯以外の諸点を改良して、それでも思わしからぬ様であったら、其時こそ窯を築き直してやろうと思って、いろいろやって見たら今日の結果である、故に他人の忠告も一から十まで信用するという訳には行きませぬ、自分は自分だけの考えだけでやって見るより仕方が無い、ナニ何処にしろまだ発達時代で、これが進歩の行き止りというのではないのですから―――と。
◎賢明なる読者は此記事によって、同社の現状を知らるるであろう、要するに同社は前には甚だ盛んに、中ごろ少しく衰え、今や再び面目を一新して、斯界の一雄鎮として推されて居る、而して同社の生産力は一箇年約一千二百万個である。(未完)
◎次には
貝塚煉瓦株式会社


出典:工業之大日本 2(6) 1905-06 pp.55~56

大阪府下に於ける煉瓦製造業(其六) 小泉王勁

七 貝塚煉瓦株式会社

◎泉州貝塚町の貝塚煉瓦株式会社は、本誌第二巻第二号中、岸和田煉瓦株式会社の条に記した通り、二十六年中、岸和田煉瓦の分工場を田端治平氏が買受けて経営したのが初りである。
◎資本金は七万円として、当初五万円を払込んで居たのであるが、例の日清戦役後、事業勃興熱の高まった時に際し、雨後の茸のように無闇にニョキニョキと生えた、煉瓦業者が無謀な捨売りをやった結果、共潰れとなって大方は廃めて了ったが、此時貝塚煉瓦もお相伴を蒙り、三十一年に至りては其経済最も苦しく、内々解散の決議もあった位。
◎然るに未払込株金を払込ました所で、矢張り損失は免れない現状であったから、ここは一番大奮発して、回瀾を既倒に翻し、各自に苦しい境界を切り抜けるより外はあるまいと堅く決心したのが主人公の田端治平氏である。
◎で、危うく解散と極ったのを食止め、石に齧り附いても斯業を成立たしめねば休まぬと誓言し、跡の株金を払い込ましめて、翌三十二年に至り始めて独逸ホフマン式輪環窯一座を据え附けた。
◎窯は一万八千個詰、十六室より成り、二十二時間を費して充分焼き上るに伴れ、生産費も相当に節約し得られ、ドウやら、成業の曙光を遥かの前路に認めて来た。
◎時恰かも仆るべきものは仆れ了り、需要供給の権衡もや、常態に復して来たので、機逸すべからずと更に翌三十三年、第二の輪環窯を築き上げた。
◎陰極りて陽生ずの道理で、二十九年以来さしも逆境に陥りし同社の事業も、新式の輪環窯を据附る頃より、漸く順境に進み、半期毎に少なからざる利益を得たが、曾て苦き経験を嘗めたる田端氏は、決して強硬に対する戒心を解かず、配当なども総て内端にして、専ら基礎の確立に勉め、傷養生に多大の注意を払うたので、久しからずして其効果現われ、無双の健康体となったのである。
◎三十八年の今日に至っては、積立金も一万円に上り、流通資金も三万円もあって、社運隆々旭日の東天に冲るが如く、優に一割づつを配当して、斯界に雄飛して居る。
◎元来同社の煉瓦は、吸水量の極小なるを以て有名なものである、焼過は十八分の一、赤煉瓦の上等は十四分の一である、その原因は工場の敷地が乾燥に出来て居るからであろうと田端氏は信じて居る、尤も窯を築く時、普通の地積より五尺揚地をしたということである、お陰で石炭が三割程助かるとは、是又田端氏の言である。
◎原土は十町内外にて得られ、運搬は門外数十歩に碧海漫々たるものあり、原料の搬入も、製品の搬出も至便至利なる形勝の位置を占めて居る、是も又会社をして今日あらしめたる要素の一であろう。
◎本年一月、同社の株主一同は、当年の貧弱と現時の富強に感ずる所あり、懇篤なる感謝状に金盃を添えて田端氏に贈った、全国に煉瓦会社多しと雖も、此程の名誉を荷いしは、独りわが貝塚煉瓦の田端氏あるのみであろう。
◎同氏に就て成功の訣を叩く、氏謙譲して曰く田野の傖父何事をか知らん、唯だ往復文書に就ては人手を仮らず、必らず之を親らするのみと、ある往復文書の披見と執筆、必らず之を親らす、余事推して知るべし、故に同社が社会に接する態度は、いつも確実できちょうめんである、恰かも同社所製の煉瓦のようである。
◎神戸の某官人戯れて曰く、お前は煉瓦のような男であると、田端氏謂らく、われ当年六十有三、長く世故の転変と奮闘して、顔面の銅色実に煉瓦の如し、官人の言はそれであろうと、焉んぞ知らん、官人が煉瓦の如しと云いたるは、営業振りの堅実を指したるものであることを、
◎今や田端氏堅実の資を以て、事に堅実の業に従い、煉瓦的方正の施設によりて、会社の地形堅めを為す、氏の会社は膠土を以て固着したる煉瓦の如く、悠久不変の状を現わすべく、株主たる者は幸いなる哉。好老爺願くは自愛せよ。
◎次号には
日本煉瓦株式会社
津守煉瓦製造所
を記載すべし。


出典:工業之大日本 2(7) 1905-07 pp.57~60

大阪府下に於ける煉瓦製造業(其七) 小泉王勁

八 津守煉瓦製造所

◎永らく書き続けたる煉瓦工業史も、今や剰すところ日本煉瓦、津守煉瓦の二箇所を以て完結することとなった、元来創業の順序より言えば日本煉瓦を先に記述せねばならぬのであるが、補記として煉瓦組合の事をも述べようと思うので、津守煉瓦の記事を先にすることにしたソハ煉瓦組合と云うことと、日本煉瓦の担当者安宅重三氏とは連貫して離るるべからざる関係があるからである。
◎で、誌面の都合により、日本煉瓦および煉瓦組合の事は次号に譲り、ここに津守煉瓦の起源より、不思議なる窯の運命、並びに同所輓近の盛況を語ろうと思う。
◎津守煉瓦製造所は、府下西成郡津守村、高野鉄道木津川停車場の前にあって、工場は鉄道線と並行し、且つ木津川に接して居るから、水陸共に運搬至便、殊に大阪市街に近いだけそれ丈、府下同業者中第一位の地位を占めて居るのである。
◎明治三十年五月、木原忠兵衛、竹尾治右衛門、平野平兵衛、阪上信次郎等の諸氏の発起で資本金十万円の株式会社を創設して、林尚五郎氏を挙げて社長にした、これが今日の津守煉瓦製造所の前身である。
◎兎に角に窯も築き上げ、営業を始めたのは同年の末であったが、翌々三十二年に至り、高野鉄道敷設の挙あり、会社所属の工場を横断して線路を敷くと云う騒ぎがオッ始まった。
◎創業未だ日浅く、百事緒に就かざるもの多きところへ、工場を両断せらるる次第で、到底発達の余地が無い、災難は時と所とを択ばぬとは云い条、当時の株主なり重役に取っては実に致命傷を与えられたものであった。
◎臨時株主会議は開かれ、会社の前途に就て意見は闘わされたが、結局当初の目的を遂行し能わざる程の不便を蒙る以上は、会社として之を継続するは策の得たるものにあらずと云うに帰着し、止むなく解散の決議を為し、清算人をも選挙した。
◎清算人等は工場の全体を、林尚五郎氏に引受けしめ、細々ながらも事業を継続させたいと希望したけれども、当時は煉瓦工業界の形勢日に非にして、経営難を訴え居る折であったから、林氏もオイソレと云う訳にも行かず、頗る躊躇したのであったが、従来の行掛り上無下に謝わることも出来ず、エエ儘よ男だ、頼まれりゃ仕方が無いと度胸を極めて、全然引受る事にしたのが三十三年の末である。
◎此時から津守煉瓦株式会社の看板は撤せられて『製造所』となり、林尚五郎氏一己人の拮据経営に任せることとなり、諸般の計画を改め、幾多の辛酸を嘗め来りて、遂に今日の基礎を拓いたのである。
◎林氏は元来砂糖および海陸の業を営み、其道にかけては中々の黒人であるが、煉瓦工業の如きは言わば商売違いである、それも株式会社の社長として幾多の人を統轄して、大体の事を見るだけならば格別、一個人として実地に窯辺を監視するが如きは、非常の苦痛に相違ない。
◎それでも有らん限りの精力を傾注して事に当たったので相応に需要者も出来たのであるが、何分焼窯に欠点があって、思うように品数が出来ない、餅屋は餅屋、素人がいくら屈託しても到底黒人の戯談にも及ばない、是非ともこれは専門家の考えに待たねばならぬと心付き、三十六年中、斯業に経験深き山田正義氏を聘して、専任技師とし、焼窯の改築、其他諸般の改善を委ねて了った。
◎元来当所の窯と云う奴、斯業に通暁せざる素人が設計築造したもので燃料も余計に要り、製品も不十分なものが、一ヶ年ようよう四百万個も出来ようかと云う次第でドウも多数の注文は受取れない、これは是非一つ改築せねばならぬが、差当り沢山な注文を官庁から請負うて居るのであるから事業を休止することは出来ぬ、火を燃しながら窯を改築する工夫はあるまいかと、幾多の学士にも尋ねて見た。
◎温泉に温もりながら飯を喰う法はありとも、火を焼きながら窯を築き直す術はないとは、素人でも考え付く事、さすがの学者達も、改築には営業休止の伴うものであると云い切って、何とも相談に乗って呉れない。
◎若し火を止めれば、官庁へ差入れてある保証金もフイになる、違約金も出さねばならぬ、おまけに生産力が一時ゼロになる、幾千円の損耗が目に見えて居る、窯の改築を断念する乎、それとも一時幾千円の損を忍ぶ乎、アア孰方も辛い。
◎されど窯を此儘にして置けば、日々の損耗も大抵ではない、一時は辛くとも改築しよう、併し火を焼きながら改築を断行する工夫は無いものかと、苦し紛れに諸所を聞合し、遂に斯業のオーソリチーたる大阪窯業株式会社の技術長大高庄右衛門氏に就き、実地に焼窯を見分して、火を焼きつつ改築が出来るや否やを研究して呉れと頼んだのである。
◎大高氏も頼まれたには頼まれたが、自家の職責重く、執務繁劇にして到底この衝に当る暇がなかったので、扨こそ自身の代人として前記山田正義氏を紹介したのである。
◎山田氏は曲さに実地を踏査した後、名誉を賭して自己の意見を発表した、曰く
一 決して火を止めず、営業を継続しつつ九十日間に窯の全部を改築して、真の独乙ホフマン式輪環窯となすこと。
二 従来七十五尺の煙突を、百二十尺に継足すこと。
三 湿気を防禦する為め、窯室内の地盤及び煙道を修築すること。
四 従前の窯の欠陥たる窯蓋、即ち大迫巻を補足すること。
五 窯の屋根を五尺だけ築き揚ぐること。
六 内壁及び外壁の改築。
◎其他それに付随する諸般の設備を完成して、全部を九十日間に仕上げると云うのである、勿論窯の火は瞬刻も止めないと云う条件で、夫々図面、仕様法などを提出したので、林氏は大いに喜んで、改築の万事を山田氏に託した。
◎山田氏は此の難工事を引受るや否や、直ちに走せて大高氏に逢い、図面、仕様書と共に自己の意見を披瀝して説を乞うたのである、大高氏は徐ろに言えるよう『此の改築は新築と異り、火を止めぬと云う所が非常の難事である、故に一身を此改築工事に捧げた覚悟で掛らねばならぬ、万一注意の粗漏より工事半ばに火を止めねばならぬようの事が起ったならば、第一に林所主の損害は容易ならざる事となり、第二に足下の名誉は地に堕つべく、第三に足下を推薦したる自分に於ても苦痛を受ける次第、従がって足下の見込通り成功するに於ては、足下の名誉は云うまでもなし、勉旃々々と』、山田氏感奮、辞謝して去る。
◎宇治の先登を約して池月を乞得た四郎高綱の心事にして、佐野天徳寺の如き老武者を泣かしむるの価値ありとせば、当時の山田氏の立場に就ても是非に一掬の涙を揮わねばなるまい、若し不幸にして結果不良ならば、彼れは必らず継足しの煙筒に其身を投じて果てたかも知れない、山田氏は武人の出である、然り彼は越後長岡の藩士である。
◎三十六年九月五日、初めて改築工事に着手し十一月三十一日竣功し、茲に立派なる独逸式ホフマン窯が出来上った、其間に於ける山田氏の苦心等は筆紙の悉す所にあらざるを以て省く。
◎改築竣功の結果として尤も顕著なるは、従前一室一萬一千個詰の焼成時間、三十三時間乃至三十五時間を要し、燃料三千五百斤を費やしたるが、改築のものは一室一萬五千余個詰となり、焼成時間は二十時間乃至十八時間に縮められ、燃料は二千六百斤で足る事になった。
◎改築の効果はそれのみならず熱度の均一と共に、製品の斉整を来し、従前の如く『トラ』を生ぜず、鮮美強靭の良品六百万個を一ヶ年に産出することになったのである。
◎これ併しながら山田氏が、献身的覚悟の致す所なりと雖も、抑も亦た彼れを信じて疑わず、彼れをして手腕を逞うせしめたる所主林氏の宏量と、彼を激まして彼に教えたる大高氏の炯眼と、相俟って其功を奏したものと云わねばなるまい。
◎生産は増加し、費用は節減し、地位は同業者中の第一位を占めて居るので、年々六割以上の純益が見られるので、新に泉北郡百舌鳥村に分工場を設け、盛んに素地を製出して居るが、更に発展の計画として、新式整型機械を百舌鳥村に据付けて一切の素地を作り、現今の工場は焼成のみとして、更に今一基のホフマン輪環窯を築造せんと準備して居る、此の計画の遂行せられたる暁には、産額は一躍千五百万個以上に上るであろう、津守煉瓦製造所の前途好望なりと云うべしである。
◎次号には
日本煉瓦株式会社
附り 大阪府下煉瓦業組合
を記述すべし。


工業之大日本 2(9) 1905-09 pp.53~56

大阪府下に於ける煉瓦製造業(其八) 小泉王勁

九 日本煉瓦株式会社

◎実質なる実業家の典型として、徒歩主義の鼓吹者として、関西産業界に牢強なる立脚地点を占めつつある野田吉兵衛氏を社長に戴き、資本金三十万円(実払込七万五千円)、積立金一萬二千円を有ち、一萬〇四百五十坪の大地積に拠り、儼として大阪府下煉瓦製造業者の牛耳を取って居るのは、堺市湊の日本煉瓦株式会社である。
◎此社の創立は明治二十九年の春である、戦捷後企業熱の勃興に伴う煉瓦の大需要に応ずべく剏められたものであって、同年十一月には早くも一基の輪環窯を築き上げた、一万五千個詰十六室のホフマン式で、翌三十年四月、更に同形同式のもの一基を増築したのである。
◎何の故障もなく焼窯は出来上る、時機は好し、三十年中は頗る順境のようで、此分ならばと稍や腹帯を緩めかかったが、中々そう容易くは参らなかった、翌三十一年は一般経済界の変兆より同業者間には早くも『恐慌来』の声が伝わった。
◎創業日未だ浅く、充分に基礎が牢まらぬ際の恐慌来であるから、なじかは以て堪るべき、三季を通じて欠損無配当、されど社長には名にし負うねばり強よき野田氏あり、支配人には素人ながら時務に精しき安宅氏あり、ジッと耐えて運命の推移を待った、これを表にして示せばコンナ工合である。

年度 製造高 配当率 積立金
三十年上半期

三百五十万

一割九分二厘

三千円
同  下半期

六百廿三万

二割

三千円
丗一年上半期

百九十八万

損 無配当


同  下半期

百九十四万

損 無配当


丗二年上半期

百九十三万

損 無配当


同  下半期

三百四十二万

一割

五百円
丗三年上半期

二百七十二万

六分

三百円
同  下半期

三百二十三万

五分六厘

二百円
丗四年上半期

三百十六万

八分

三百円
同  下半期

三百八十七万

五分強

二百円
丗五年上半期

二百六十七万

五分強

二百円
同  下半期

三百八十七万

八分

千円
丗六年上半期

四百四十二万

八分

五百円
同  下半期

四百十八万

八分

五百円
丗七年上半期

三百九十一万

六分

三百円
同  下半期

四百七十四万

六分強

五百円
丗八年上半期

五百七十万

一割

千五百円

◎平均すれば、配当率は七分三厘九毛になる、之を岸和田煉瓦の平均一割以上なるに比べては成蹟甚だ佳ならざるが如しと雖も、此社は途中で減資などはして居らぬから、事実に於て決して劣ることはなかろうと思う、併して現に存在せる同業者は悉く一たびは例の『恐慌来』を味わった奮闘児であるから、孰れを孰れと軒輊することは出来ない。
◎前掲既往八箇年半の表によっても、時に一消一長ありとも漸々に成産額を増し来ることが判るであろう、これ年毎に得る経験の功果と、経済界の順漸に復したことが原因であろうが、一面には又、常務取締役安宅重三氏が鋭意諸般の改善を行いつつある功果の実現に外ならぬのである。
◎尤も同社の発展は実際これからが見物である、已に此頃は毎月平均百二十万個を焼立てて綽々余裕あり、況んや現下増築中の三十三室より成れる大輪環窯が竣成さるることともならば、産額は忽ち現時の倍数以上に及ぶであろう、兎にも角にも廿二万五千円の未払込株金を剰して居るのであるから、当事者の参画その宜しきに適えば、発展の度合は遽かに測り知るべからざるものがあろう。
◎同社製品の優良なるは世に定評あるが故に、くどくどしく之を説かず、ただ野田氏はじめ安宅氏等が、煉瓦そのものを以て単に自己の商品也とは心得ず、大阪府下の産物なりと云う見地を以て判断して居る事と、所々の博覧会及び品評会に於て常に高位の賞牌を受けて居ると云う事を述べて置く。
◎事業の成敗は、社会の経済事情によりて、多くの影響を受くるは言うまでもなけれど、第一は当事者其人の手腕如何に帰さねばならぬ、ここに少しく同社当事者の為人を語らん。
◎現社長野田氏が、一身十数社の重役を兼ぬるの可否は茲に論ずべき問題にあらず、併し此種の重役請負者(語弊あれども適当の敬辞を思い付かず)に有り勝ちなる、浮華軽兆の風臭は、彼れに於て寸毫も認むることが出来ない。
◎質素を経とし、力行を緯とし、日々徒歩して自己が関繋を有する各会社を巡歴し、質素主義、力行主義を以て至る処の社員を戒餝し、努めて適材を適所に用いて錯りなからんことを期するの外他事はない。
◎併し余りに多趣味なる渠れの如き大人物の面目を、この煉瓦工業史の小さなる余白に紹介せんことは到底不可能であるから、是は異日稿を更めて評論することとし、茲には実際の当事者たる安宅氏の出処を叙し、進んで煉瓦業組合の現況に就て語らねばならぬ。
◎安宅氏の上半世は他の奇なし、要するに役人生活を以て一串して居る、収税吏より郡書紀を歴、尋で台湾総督府の官吏となり、到る所循吏の誉れを博しつつつ功により、位記勲等年金をも授けられたが、三十年中病を以て帰堺した時、恰度この日本煉瓦が出来たので、遅れ走せに入社して俄かに煉瓦屋の仲間入をしたのである。
◎出身が出身だけに、事務の整理ということに就ては二十年来の経験を持ち、且つ石橋をも叩いてから渡ろうという性格が、太く野田社長の質素主義、力行主義の敷衍に適応して居るので両者の関係は恰かも弥陀と釈迦のごとく、一心分体、孰れを本尊、孰れを御前立と云うことが出来ぬ位いである、斯くして所謂適材は適所に用いられ、其結果として社運はいよいよ隆昌に趣くのである。
◎安宅氏は元と因州の出身、たまたま力士荒岩と其郷里を同うし、其嗜好を齊うせるを以て無二の荒岩贔屓として、年々の本場所の成績に就て遥かに力瘤を入れて居たのであるが、荒岩も愈々大関の地位を占めたに就て、自家の責任も亦た重きを加え、誓うて煉瓦界に横綱を張ろうと期して居る、従って痩せては居るが相撲に掛けては、一寸素人離れがして居るそうである、好漢願くは健在なれ。

十 煉瓦同業組合の事

◎組合の創始は中々古く、一時は組合員も沢山あったけれど、生存競争上、不健全な分子は年毎に倒れて現に健全なる組合員は五社二個人で頭数の上より言えば、実に微々言うに足らざる組合であるが、之を大阪府下の製造工業の上より見、将た泉州全体の富力増進の上より見て、決して、軽々に看過する事の出来ない組合である。
◎最初の組合長は旭煉瓦株式会社の社長喜多羅守三郎氏で、其下に五人の幹事があって、同業者間の気脈を通じ、相互の利益を計ったのであるが、例の『恐慌来』で組合員は月毎に減じ、且つ自衛に急なるの余り、組合全体の事は言うて居られないと言う次第で、組合も寧ろ有名無実で、何の働きも無いものになって了うた。
◎兎角する内、旭煉瓦も潰れて了い、喜多羅氏も煉瓦業者の間に籍を置かなくなったので、組合長の重任は、其頃最も時務に通暁せりとの公評ある日本煉瓦の安宅氏の双肩に懸けられたのである。
◎時は明治の三十四年、安宅氏が此任に就くと相前後して同業中仆れるものは仆れて了い、残るものは稍や健康を復した時であったから、甚だ事が仕易くなった、時すでに可、人も亦た可、ドウヤラ組合も一陽来復の機運に会したらしい。
◎縦し一流の人傑を網羅して組織した内閣でも、統一を欠いては長持がしない、独り永続しないのみならず仕事が出来ない、或る意味に於て『統一』は『成功』の要素である、然らば『統一』は何に由って庶幾し得べき乎、曰く公平、曰く同情、曰く謙譲。
◎此点に於て安宅氏は最も適当な材である、煉瓦を以て各自の商品とするよりは、寧ろ大阪府下の物産にして、泉州一国の富の基として居る、従って事を執る公平、同情に富み、主我の念薄く渾然として同業の全体を抱擁するの雅懐を有って居る。
◎斯くて安宅氏が組合に長たりし以来、相当の利益を見ざる組合員もなく、相互の交誼は年と共に温かさの度を加え、到底組合を離れては従来の利益を見ることが出来ないと云う観念を各員の胸裡に植え付けたのである。
◎謂えらく、吾々は無益の競争の為めに、現時に比して年々数十万円の取不足をして居たのである、組合ありながら組合を利用する法を知らなかったのである、此の過は再びすべからず、ああ組合なる哉、組合なる哉と。
◎従って蝸牛角上の小ぜり合は、大阪府の物産として、発達を期する所以にあらずと大悟一番し、戮力協心、清韓地方に新華主を求めることに熱中し対外商船の一踏歩として当分内地の時価よりヨリ以下を以て売渡すことに決議し、各組合員一致して寧ろ一時の損失を犠牲にして我製品を売拡めて居る、是等は到底組合を離れては遣り得ぬ仕事であろう。
◎斯ういう所へ気の付いたのは、素より時勢の賚のには違いないが、抑も亦た其首領たる安宅氏の指導宜しきを得た結果であらねばならぬ。
◎さもあらばあれ、此組合が寔に其能力を発揮して、大阪府下の製造工業に多大の貢献をなすことは今日以後にあることは言うまでもない、頃者石炭輸出制止の決議を提けて、各地商業会議所に移牒したるが如き、説の可否は暫く措き機会だにあらば活躍せんとする意気が仄見えて頼もしいではないか。

十一 余録

◎以上続掲の記事により、大阪府下に於ける煉瓦工業の消長、及び現時の同業者の隆運に就てその一班を語り了ったことと信ずる、されど斯業の進歩は暫くも停止せず日々に向上の道程を辿りつつあり、記者が既往九ヶ月間、下手の永談義を続くる間に、早其内の或る者は驚くべき発達を遂て居る実に愉快なる減少ではないか。
◎就中進歩の著しきものは大阪窯業、岸和田煉瓦の二社である、大阪窯業が常に科学と産業との調和を計り、他に率先して発明する所多きは世に定評あれどども、今回の給炭装置の発明の如きは、実に窯業界に一新紀元を画したるものと云うべく、例の特許窯と相俟って、僅々六時間に焼成を畢ると云うに至っては、産額の増大思うべしである、而かも大阪窯業の当事者は、尚お之を以て足れりとせず、新たに三十二室より成る大輪環窯を築き始め、それが素地を造るべく、更に二台の製型機械を外国に注文した、されば後くとも来年三月以後には、一躍生産力を増大して現今の二倍以上となし、年分五千万個内外を造り出すであろう。
◎岸和田煉瓦の生産力は、現在に於て各社に冠たり、最近一ヶ年の製出高二千四百五十余万個と計上せらるるにも拘わらず、更に一基の輪環窯を増築し、現の其工程の半にあり、無論本年中には竣功すべく、従って其産額に於ても更に八九百万個を加うるであろう。
◎貝塚煉瓦も亦た製産力を増すの計画あり、其準備として半製品の貯蔵場を増建し、其他諸般の設備を完成して徐ろに雄飛の機を窺って居る、早晩起るべきは窯の増築問題ならむ。
◎其他日本煉瓦、津守煉瓦等おのおの増築の工事に着手し又は其計画を進めつつあり、丹治、堺の両者も何事か考えて居る筈であるが、未だ聞くことを得ないのである。
◎岸和田煉瓦の隣接地に、新たに泉州煉瓦株式会社なるもの起り、目下工場造営中なれば、これも来年は立派な成産力を持つであろう。
◎斯くて大阪府下の煉瓦の生産高は明治四十年に至らば確かに二億三四千万個に上るべく、一個一銭づつとしても二百三四十万円の代価を得ることになる、之を東京地方の約一億万個、尾三地方の約三千万個、西部地方の約二千万個に比較せば、彼我の大小決して同日の談にあらざるを知らるるであろう。
◎されば煉瓦は大阪府有数の特産物であって、斯業の盛衰は経世家の重要なる条件である、而かも本年度の高等工学校の窯業科の卒業生がたった三人というに至っては、寧ろ奇怪の感想に打たれるではないか。
◎畢竟是れ供給者の罪なる乎、将た需要家の罪なる乎、要するに二者共に、斯業の地方経済上に至大の関繋を有することを悟らざるの罪である若しも記者の累月の言説によりて、斯業の地位状態が社会に紹介せられ、旧来の迷夢を撹破して、弘く科学と産業との調和を見るに至らば記者の本懐は言うまでもなく、我社本来の趣旨も、幾分透徹さるるの喜びに逢うであろう。
編者曰 大阪府下の煉瓦工業は本号にて完結を告げたれども、補記として神戸以西唯一の文明的煉瓦工場なる
讃岐煉瓦株式会社
の過去現在を叙し、以て本編の掉尾となすの必要あり、蓋し同社は大阪府煉瓦業組合の准組合員たるが如き事実あれば也。

http://bdb.kyudou.org/?p=12657

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