京都鉄道印(南桑煉瓦)

亀岡市の旧市街や旧山陰街道沿いの街区で見られる特徴的な煉瓦刻印。京都鉄道の社章そのものであり、事実京都鉄道が建設した地蔵第二トンネルの東口、京都鉄道社長も勤めた資産家・田中源太郎の旧邸宅の築地壁にもこの刻印煉瓦が使用されている。『亀岡市史』下巻p.144に、この邸宅の建設に南桑煉瓦の製品が使われたとあり、南桑煉瓦がこの印を使用したことは間違いない。

南桑煉瓦は明治29年12月に南桑田郡篠村馬堀(現・亀岡市馬堀)に創業した工場で、山田理一郎を中心とする篠村の有力者らによって始められた。亀岡市文化資料館には山田理一郎の日記が蔵されており、これを検証することで同工場創始のいきさつや経過をつぶさに知ることができる。詳しくは『日本の廃道』第175号第176号「京都鉄道と南桑煉瓦」を参照されたい。

馬堀には南桑煉瓦が設立される以前から京都煉瓦製造株式会社の工場があったが(明治28年8月創業)、地元との折り合いが良くなく、理一郎に助力を求め賄賂を渡そうとするほど行き詰っていたらしい(理一郎日記M29.10.1)。そのような工場に反目を覚えた地元有力者らが京都煉瓦製造に対抗して南桑煉瓦を起こしたようである---田中の発起ではなく他の有力者に担がれる形で社長に就任---。

工場設立の目的はもちろん京都鉄道の建設に当て込んでのことだったが、京都鉄道との交渉は工場設立後のことであった。生産準備が整った明治30年7月に京都鉄道との間で煉瓦300万個余りの納入契約が結ばれるが、その時に要求された品質改善(煉瓦規格の変更を含む)を実施するため請負価格の再交渉が行なわれ、それが不調に終わったために南桑側が契約解除を申し込むという一幕もあった。『新修亀岡市史』等ではこれによって完全に終業したように書かれてあるが、実際には契約解除の申し込みは撤回され、不足分を亀岡の分工場から買い受けるなどしつつその後も製造が続けられたことが日記に書かれている。現トロッコ亀岡駅付近にあった京都鉄道の資材倉庫へ製品の搬入もなされているし、明治31年6月11日の日記には京都鉄道から煉瓦代金4500円を受け取ったことも記されてあり、紆余曲折はあったものの300万個を納入し切ったのは間違いない。

保津峡区間の工事を請け負った鹿島組(現・鹿島建設)のサイトに亀岡に京都鉄道会社の直営煉瓦工場が作られたとあり、『日本鉄道請負業史 明治編 中』にも「煉化石セメント等は一切会社の供給である」との記述がある(p.231)。これが南桑煉瓦のことを指しているものと思われるが、亀岡市街のはずれにも京都鉄道直属の煉瓦工場があり、また京都二条の本社近くにも工場があったようで、いずれとも決しがたい(この三工場の職工が賃金増を求めて罷業を計画したこともあった。理一郎日記明治30年4月4日。京都煉瓦製造は早々に撤退)。故に京都鉄道印煉瓦即ち南桑煉瓦の製品というわけでもないようである。

京都鉄道の構造物や亀岡市域ではカナ一文字の刻印も見られ(例:「」「」「」)、書体や大きさは堺の旭商社のものと推定しているカナ刻印に類似しているように思われる。例えば深山第一砲台の通路天井の「」など。南桑煉瓦の製品だけですべてを賄ったわけでもないらしい。

なお京都煉瓦製造の設立と初期の展開に関しては『大日本窯業協会雑誌』に複数の報がある。いずれも京都日ノ出新聞からの転載である。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/3/36/3_36_334/_pdf

第3巻第36号(明治28年)窯業彙報 創業総会の報

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/40/4_40_107/_pdf/-char/ja

第4巻第40号(明治28年)窯業彙報 臨時株主総会を開催、資本金増額など。社長木村重忠、取締役吉居眞忠、山中仙太郞等の三氏は堺・明石の同業者視察へ出発

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/46/4_46_348/_pdf/-char/ja

第4巻第46号(明治29年)窯業彙報 馬堀分工場完成と愛宕郡大宮村船岡山の麓、大字内畑に第二工場建設の計画を報じる。船岡山は建勲神社のある辺り。

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