丹治煉瓦製造所(丸丹)

大阪府下で最古の私設煉瓦工場とされる工場。大阪府誌や堺市史、各種概史には明治3年創業とある。これは丹治煉瓦自身が提出した由来書に則ってそう記されているだけで、例えば明治14年や19年の大阪府統計書には丹治煉瓦製造所の名は現れない。資料上確認できるのは明治22年大阪府統計書や大阪毎日新聞M22.7.3朝刊2面(堺市の煉瓦製造業組合に加盟して煉瓦を製造していた6社の中に「丹次製造所」の名が挙がっている)が最も古く、朝日新聞大阪版明治21年5月2日朝刊4ページの工場別製造高の記事には丹治工場の名はない。まずはこの辺りの、創業から独立工場となるまでの経緯を整理したい。

丹治煉瓦の経歴を伝える文献は数多く存在するが、『工業之大日本』第1巻第5号(明治37年刊)に小泉王勁が投稿したものが最も正確で達意の記録と思われる。全文は拙作書き起こしを参照いただきたい。小泉記事によれば丹治家は堺地方を代表する旧家の一つで、代々瓦製造に従事していたが、明治3年、丹治利右衛門の代から煉瓦製造に従事し始めたという(記事が書かれた当時の所主も利右衛門といったが、その先代の利右衛門である)。当時は「パン瓦即ち煉瓦石」を自家の瓦窯で焼いていて、ただしこの頃はまだ恒常的な生産はしておらず、瓦製造の傍らで造幣局や砲兵工廠から発注があり次第パン瓦を焼く程度だった(パン瓦は窯の敷石や焼成物の支持に用いる小型の煉瓦で、小泉記事に「長さ七寸、巾三寸二分、厚さ壱寸六分」とある。敦賀線煉瓦工場跡パン瓦参照)。なお鉄道省編『鉄道一瞥』(大正10)には明治3年に堺の函館会所跡に鉄道寮煉瓦製造所が設けられたとき、丹治長蔵という人物が職工長を命じられたとしている。あるいはこの長蔵が先代利右衛門であったのかも知れない。

初代の工場は舳松村(現・堺市永代町付近、堺環濠に面した位置)にあったが、明治6年に濠の対岸、少林寺町東三丁の引接寺跡を買収して煉瓦工場を建設。そして明治20年、煉瓦卸売業として頭角を現しつつあった宮崎商店が堺煉化石会社を設立した前後には丹治の工場が同社の第一分工場として稼働していた(朝日新聞 M19.10.3 記事大阪日報 M20.9.13 4面広告、朝日新聞 M20.9.17広告〔右図〕。製造した煉瓦は呉の鎮守府建設に使われたといい、その納入は宮崎商会時代から行なわれていたので同社創業のM18.11頃まで遡る可能性がある)。堺煉化石会社の社長は井上勝彦(確証はないが鉄道頭・井上勝の叔父であり東海道線工事にも土木請負業として参加していた井上勝彦のこととみられる)、取締役は川口正衛、秋岡茂一、黒田伊助、宮崎三郎等で、三本の線を矢羽根形に組み合わせたマークを社章として掲げていた。

堺煉化石会社は煉瓦製造業組合を結成したり、”欧米風に擬したる新工夫の竃”や”蒸気仕懸の製造機械”の導入を計画したりと当時の大阪府下煉瓦製造業をリードする存在であった。詳細が伝わっていないのはまことに残念である。上記計画も新聞記事や広告にあるのみで実現したかどうかは判然としない(もし実現していれば第一分工場=丹治工場に採用されていたものと思われるが丹治煉瓦側にその記録はない。因みに堺煉化石の第三工場は青山煉瓦工場であった〔滋賀県公文書に青山煉瓦工場が堺煉化石会社第三工場として煉瓦の売り込みを図った文書がある〕)。この時代の堺煉化石会社と後年の堺煉瓦株式会社との関係もはっきりとしない。とにかく堺煉化石会社は明治22年夏の新聞記事を最後に姿を消し、その一方で『大阪府統計書 明治22年版』から大鳥郡舳松村の煉瓦工場=後の丹治煉瓦工場が現れるようになる。堺煉化石会社の解散後、丹治氏の個人工場として独立したようである。

小泉記事は明治28年に先代利右衛門が逝去し、当時の利右衛門がその跡を継いだとする(『日本工業要鑑 明治40年第2版』等でも所主:丹治利右衛門)。そして明治32年には十四室からなるホフマン式輪環窯を建設、36年にも同式の窯十六室を有せるものを築造した。この頃年産960万個に達したともあり、株式会社として大々的な製造を行なっていた大阪窯業岸和田煉瓦堺煉瓦日本煉瓦に比肩する規模に成長していた。明治末から大正期にかけてはこの5社に津守煉瓦を加えた6社が”府下六大工場”として関西の煉瓦製造業を牽引していくことになる。

『工場通覧』等のデータ資料を見ると明治期は一貫して丹治氏の個人工場として経営されたことがわかるが、大正期に入る頃から株式会社・合名会社・合資会社とするものが混在しだす。例えば『銀行会社要録 : 附・役員録 17版』(大正2)では丹治煉瓦合名会社、『大日本帝国商工信用録 10版』(大正3)では丹治煉瓦合資会社などとなっており、あたかも頻繁に改組したように見えてしまうが、その多くは誤記であるらしい。官報の商業登記を骨格として諸情報を整理すれば

・大正元年9月:丹治煉瓦合名会社設立 (帝国銀行会社要録 : 附・職員録 大正8年(8版)
・大正11年7月11日:同上清算 (官報 1922年09月19日
・大正12年4月1日:丹治煉瓦合資会社設立 (官報 1923年07月13日
・大正15年9月12日:同上解散 (官報 1926年12月14日

となる。この間代表社員・無限責任社員は一貫して丹治良一名義である。

工場規模のわかるデータ資料『日本工業要鑑』を見ていくと第5版(明治45、46年)で窯数が三基に増えている(以降変わらず)。従業員数は男女計50~250人を推移し、確かに中堅工場という貫禄があるが、他の工場が採用したような成形機械は遂に採用しないまま終わったようである。ただし丹治工場の事務所だった煉瓦建築(現「創作イタリアン 丹治」)には小口を丁寧に撫でて整えた煉瓦が使われており、これがいわゆる「磨き煉瓦」と呼ばれた手製の化粧煉瓦なのだろう。


この建物の勝手口のステンドグラスには「丹」の字を意匠化したマーク(〝丸丹〟)が掲げられており、また同建物前の透かし積みの煉瓦壁には〝丸丹〟を刻印した煉瓦が使われている。このカテゴリに登録した刻印群である。一方、大正期に博信社が刊行した商工信用録(例えば大正2年刊『帝国商工信用録 7版』)や商工案内社『京阪神商工録』(大正7年)には丹治煉瓦合資会社の項目に〓記号を左右にずらしたような商号が掲げられ、同様の煉瓦刻印が関西圏に多数分布している(〝〓丹治〟)。このことから〝丸丹〟を明治期の商号・刻印、〝〓丹治〟を大正期のものと推定してきたが、この関係は逆であるかも知れない。そもそも旧事務所は正確な竣工年が伝わっておらず(現業のためにリノベーションした際棟札は見つからなかったと伺っている。それ以前は個人宅として利用されていた)、その一方建屋左右から手前に伸びる壁の基礎部分には〝〓丹治〟刻印煉瓦が使われているので、〝丸丹〟と〝〓丹治〟が同時並行的に使われていたか〝〓丹治〟のほうが早かったと見るべきだろう。また、山陰線工事の余剰煉瓦で作られたという釜屋三柱神社の壁(兵庫県美方郡新温泉町釜屋)や山陰線竹野川橋梁の旧橋台(豊岡市竹野町)には〝〓丹治〟刻印煉瓦が使用されている---山陰線のこの区間は明治44~45年に開業---。そもそも〝〓丹治〟を社章に掲げた『帝国商工信用録』では大正2年の初出から「合資会社」と誤記され続けていて、最初に作成した版を使い回し続けた形跡がある(『京阪神商工録』も全く同じ構成)ため、信用度が低いと言わざるを得ない。

〝丸丹〟を社章として掲げた資料に実業公益社刊『大阪府実業参考録』(大正13年)がある。ここでは丹治煉瓦合名会社となっていて、正確には〝丸丹〟ではないがそれに近いマークが掲げられている。これを全面的に信用し、〝丸丹〟は合名会社時代(大正元年~11年)の社章であり『帝国商工信用録』の〝〓丹治〟はそれより以前の個人工場時代の使用印とみるか、あるいは『帝国商工信用録』を信用して〝〓丹治〟を合名会社以前からの継続使用、〝丸丹〟を合資会社時代(大正13~15)の使用印とみることもできるだろう。

なお、工場所在地の周辺では〝丸丹〟や〝〓丹治〟の他にも英数字を四角で囲った刻印(〝□+英数字〟)が集中的に検出されている。これが”丸丹”と共使いになっている場面もあり、丹治工場がある時期に使用していた識別印ではないかと思われるが---例えばこれを丹治煉瓦合資会社時代のものとすれば〝〓丹治〟→〝丸丹〟→〝□+英数字〟という変遷が既検出の共使い状況と一致する;〝〓丹治〟と〝丸丹〟、〝丸丹〟と〝□+英数字〟は共使いになり得るが〝〓丹治〟と〝□+英数字〟は共使いにならない---、そう断言するだけの物的証拠に乏しいのが現状である。


「 丹治煉瓦(丸丹)」カテゴリーアーカイブ

WP Twitter Auto Publish Powered By : XYZScripts.com