大阪窯業

東の日本煉瓦製造に対し「西の横綱」と評された関西随一の大工場。関西圏の煉瓦工場の中で唯一社史を作成しており(『大阪窯業株式会社五十年史』、昭和10。以下『社史』)、その歴史を比較的詳しく知ることができる。詳細は同書参照。ここでは社史の概略を、製造された煉瓦(の判別)に関係がありそうな点と『社史』にない情報を中心にまとめていく。

創始~明治30年(炭屋新田時代)

明治15年に硫酸製造会社の子会社として設立された硫酸瓶製造会社を源流とする。当初は硫酸瓶製造会社の敷地の一角を借りて硫酸瓶のみを製造していたが、その焼成のために必要な「パン瓦」と称する煉瓦も自社製造するようになり、その実績からやがて煉瓦製造に軸足を移していくことになる。このパン瓦は「長さ七寸、巾三寸二分、厚さ壱寸六分」という薄型小型のものであったことが明治37年頃の雑誌記事にある。窯内で製品の台にしたり炎の当たり具合を調整したりするために用いられたものらしい(敦賀線建設用の臨時工場跡でも強く溶融したこのサイズの煉瓦を見る)。なお硫酸製造会社は明治10年西成郡湊屋新田に藤田伝三郎の肝入で始められたもので後の大阪アルカリである(大河内翠山『藤田伝三郎』、のち明治12年に府下最初の株式組織として硫酸製造会社が設立された。宮本又次著『大阪商人太平記』明治中期編 p.50も参照。主導した豊原百太郎は造兵寮硫酸製造技師〔『社史』〕。難波の藤田組工場も明治15年頃まで操業しており、廃止後の技術が移されているかも知れない)。

明治18年には同地で事業を拡大し焼窯を新築。『社史』では明治21年1月には社名を大阪窯業会社に変更したとあるが、大阪日報 明治20年12月7日号4面に「自今 有限責任 大阪窯業会社 と改称致候也」の広告があり記述と一致しない。またこの年にホフマン窯を築造し12月に竣工。関西地方におけるホフマン窯使用の嚆矢となったとされる(大阪毎日新聞 M22.1.22 2面に初焼成の景況を伝える記事あり。房数16、一昼夜に15000個を焼成)。

しかし明治26年、大阪アルカリの事業拡大に伴い敷地の返還を求められ、窯ともどもに明け渡さなければならなくなる(翌年商法施行に伴い株式会社化)。そうして求めた新天地が堺市大浜であった。

堺移転前の生産状況ははっきりしないところが多い。比較的初期から煉瓦を製造していたことは確かで、大阪日報 M20.1.15にフランス公使館より受注を受けて煉瓦を製造中という記事がある。「過日焼失したる同国公使館を新築するの用に供するもの」ともあり、確かにこの年明石町の外国人居留地に移転したという情報が三田村哲哉「駐日大使館建築の基礎的・実証的研究」にある。同著者「最初に描かれた在日本国フランス大使館の計画案」では1887年1月4日に麹町三番町にあった公使館が焼失し、1888年に築地居留地18番に移転ともある)。煉瓦製造販売を謳う広告は東雲新聞M22.3.20号に掲載されたものが管見の限り最も古い。

大阪窯業が第一線の煉瓦工場として活躍し始めるのは堺移転後のことなので、炭屋新田時代に製造された製品については不明なところが多い。大阪窯業マークを打刻し始めた時期も不明である。炭屋新田時代の大阪窯業では淡路志筑産の粘土を使用していたことが『堺史料類纂』に収録されている大阪窯業提出書類の中にあるので、胎土分析によって後の製品と判別できるかも知れない。

明治30年~明治45年(堺工場時代)

明治28年12月の総会で増資と堺移転が可決され、翌29年1月には堺に仮事務所を設置、諸施設の建設を進めると同時に同年3月から素地製造を始めた(『社史』pp.68-69)。また明治30年4月総会では再増資と煉瓦成形機械の購入が決まる。これら新陣容の整備に技師長として尽力したのが大高庄右衛門である。

大高の経歴は『大高庄右衛門紀念誌』に詳しい(以下『紀念誌』)。慶応元年千葉県山武郡大富村の豪商の家に生まれ、同郡出身の政商・池田栄亮の周旋を受けて渋沢栄一とも面識を得た。明治19年池田と渋沢が日本煉瓦製造株式会社を設立すると煉瓦製造技術者として採用されることになり、その技術研修の意味で外務省臨時建築局建築見習生の肩書で渡欧、煉瓦製造技術を中心に学ぶことになる。それまで煉瓦に関する知識のなかった大高は北足立郡元木村の隅山組煉瓦製造所に職工として入り、その技術を習得してから渡欧したという。帰朝後は日本煉瓦製造に入りチーゼに代わって工務を監督し化粧煉瓦を焼くための最新式の角窯(カッセル窯)を築くなどしている(明治21)。その後は政府や企業の求めに応じて各地の煉瓦製造会社の技術指導を行ない、工場設計や施設の改良を手がけた。この頃関わった工場としては三石耐火煉瓦(株)(同社勤務)、山陽煉瓦(株)(以下嘱託?)、高松煉瓦(株)、東参煉瓦(株)が挙げられている(『紀念誌』p.9)。大阪窯業に関わったのもその流れからであったようである。

大阪窯業の求めで同社の嘱託技師となり新窯建設を任された大高は自身設計の「改良ホフマン窯」を築く(M29.10.20焼成開始;『社史』p.69。特許成立はM34。改良ホフマン窯の特徴は上記リンク先参照)。また大高は成形機械として独国グローケ社の製品を選択し雑賀商会に発注した(製造開始はM31.10.;『社史』年表)。グローケ社の成形機は土練機・「ワルツ」と呼ばれる破砕機(粘土に含まれる砂や小石を二本のローラーで粘土ごと磨り潰し圧出する)・煉瓦製造機からなるもので切断は手動。各部概要は後述する大髙の報告書から伺い知れる。切断はピアノ線を張った器具を押し切り包丁のように操作して行なうため、煉瓦平の角付近を中心とする同心円状に切断痕が残る。明治40年に岸和田煉瓦が採用した機械はピアノ線を張った回転ホイールで連続的に切断するもので小口から小口に渡るような円弧状の傷がつき両者を区別することができる(c.f. 岸和田煉瓦カテゴリ)。

大阪窯業の機械成形の採用は関西地方における最初期の事例だったが、この頃製造された大阪窯業製品と明らかに特定できるもの(明治30年代初頭に製造された機械成形煉瓦と明らかに言えるもの)は実は見つかっていない。転石では機械成形煉瓦に大阪窯業刻印が押されたものがいくつか見つかっているが、いずれも210x100x60mmのJIS規格で明治後期の製品とは考えにくい。当時の機械成形煉瓦は建物の化粧張りに採用することを意図して作られていたから建物の亡失と共に失われてしまったものが多いと想像される一方、この頃の機械成形煉瓦が低品質で建築家の眼鏡に適うものではなかった可能性もある。明治35年に京都市三条通に竣工した中京郵便局にはわざわざ遠方から取り寄せた日本煉瓦製造の製品が使われているが、これは畢竟関西地方の煉瓦が化粧積みに向かないと判断されたためであるだろう。大高は明治33年に政府の命を受けて海外実業視察員としてドイツ窯業界を再視察しており、その報告書「独乙国に於ける窯業(特に土管、煉瓦、敷瓦)に関する報告」(『農商務省商工局臨時報告 (14)』、明治33)の中でも在邦工場の成形機械採用が失敗に帰していることを述べている。これも案外大髙自身(大阪窯業自身)のことを念頭に置いた言葉であったかも知れない(同記事別場所で大阪窯業の機械成形煉瓦は好評を博していると書いているが)。なお大阪窯業よりも前に関西煉瓦がプレス式で機械成形を行なっており、関西の嚆矢であったというわけではない。また堺煉化石会社が明治21年頃にドイツ製の成形機械を導入しようとした節がある。ただしこの広告以降の堺煉化石の動向は掴めず実際に製造を行なったかどうかは不明である。

手成形煉瓦に関しては、建造年既知の構造物では片町線上戸川橋梁橋台に見られる”社章+カナ+釘+改”印のものが現時点では最古(関西鉄道の新木津乗り入れはM31.6.)。M22.3.20着工・M23.10.20竣工の生石山第三砲台最右翼砲座附近で検出した転石やM29.5.24着工・M30.11.30竣工の大川山堡塁の転石でも大阪窯業印を確認できるが、転石状態で検出したため確定的ではない(後者は敷地を囲む柵壁の柱に使用されていたものとみられる)。

以上のような経緯で大阪窯業に関わった大高は明治34年1月に同社に入社することになる。二回目の渡欧の頃、大阪窯業社長の磯野良吉も欧米視察を行なっていて、その視察先で大高と出会ったことが契機であったという(『紀念誌』磯野寄稿)。はじめ支配人兼技師長として、明治40年1月からは取締役も兼務し(のち専務取締役)、大阪窯業の経営全体を任されるようになっていく。

明治30年代前後に設備投資を専らとしていたことは大阪窯業にとって幸いであったかも知れない。この頃関西圏では一時的に煉瓦需要が増し、卸売価格も2倍近くまで高騰、それに当て込んで多数の新興工場が興ったために供給過剰となって斃れていった工場が多かった。それをうまく躱すような形で堺移転が行なわれているのは大高の嗅覚の鋭さ・決断実行の迅速さに依る所が大きかったようである。

(M35頃の大阪窯業の生産量、および煉瓦の供給先・納入個数をまとめた資料が『堺史料類纂』にあり)

狂乱状態が落ち着いた明治35年にも工場増強を行ない、輪窯1基と成形機械を増加、明治36年には年産1300万個の体制となる。それとともに化粧煉瓦焼成用の窯・成形機械(米国製半湿式)を新設、この年には稼働を始め年産50万個の製造能力を持つに至っている。この機械によって製造されたのが旧日本銀行京都支店に採用された化粧煉瓦とみられる。この半湿式機械は扱いが難しく、使いこなせるようになるまでかなり苦労したようである(『社史』付録の回顧録参照)。

その後も順調に業績を上げ、明治39年末の株主総会でも工場拡張を決議。輪窯1基、乾燥室(2階建・4階建1基ずつとあるので既存窯にも追加したか)、機械室などを増築した。この時増築した輪環窯は当時最大級のもので、『社史』でも「最も矜持とすべき施設」と評されている。また同総会で和泉煉瓦貝塚煉瓦の買収も決せられている。それぞれ大阪窯業岸和田分工場、貝塚工場となり、輪環窯1基、成形機械2基ずつが設置され、明治40年から稼働を始めた。この時点で大阪窯業全体では輪環窯4基・成形機械8基(ドイツ製湿式7基・米国製半湿式1基)という体制になる。

成形機械導入直後の製品については記述の通り。それと並行して手成形煉瓦の製造も続けられたらしく見える。大阪窯業の古い手成形煉瓦にはカナの識別印や釘印が添えられたものが多く、稀に「改」字も添えられたものがある(「大阪窯業 改」カテゴリ参照)。この「改」印は同社が使用した検印の一種とみられるが、検出例の限りでは「改」字のあるなしで品質が違うようには見えず、品質保証を意味するものではないように思われる。堺の製造業では以前から堺製であることを示す極め印が使われていたが文字通り”堺極”と打刻されることが多かった(例えば堺の打刃物)から、それに倣えば”極”でなければならなかったろう。そうではなく、例えば堺移転時に築かれた改良ホフマン窯で焼成したことを示すもの(同窯で焼く素地に打刻しておき、焼き上がりの違いを確認できるようにするためのもの)ではないかと推測している。既検出の「改」印煉瓦は移転端境期(明治30~31年頃)に建造された構造物に関係すると思われるものが多い(先述の上戸川橋梁橋台のほか、奈良線櫟本駅・宮田架道橋にも”改”らしきものがある。櫟本駅はM31.5.11開業)が、一方でM45から分譲が始まった岡町住宅地の煉瓦溝でも複数検出されているので確定的ではない――検出された場所は岡町住宅地のなかでも旧家が集まる一帯なので宅地化以前の集落で使われていたものであるかも知れない――。

大阪窯業マークは明治41年に商標登録されている(『日本登録商標大全 第3輯上巻』第14類第1丁)。ここに示された社章は三本線が密に接した状態で、初期の刻印と推定されるものもこれに準じた形であることが多い。後年の製品では三本線が離れていき線の長さも短くなる。

『日本登録商標大全』

岡町住宅地縁石
(社章+”改”+カナ)

大阪窯業耐酸煉瓦
(M39~)

(以下続く)

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