隅立井筒+三線(三筋井筒)(四日市煉瓦?)

東海道線・敦賀線の明治20年代前後に建設された煉瓦構造物やその近傍で検出される刻印。製造年が特定できるものとしては揖斐川橋梁橋台井筒(M19.12.竣工)に見られるものが挙げられるが、濃尾地震後に同橋台を改築した記録があるため判断が難しい。また武豊線北浜田暗渠(M18.10.)でも検出されているが同暗渠の煉瓦は沿線の他の構造物群とは異なる特徴があり、これも濃尾地震後に改築された結果である可能性がある。
屋ノ棟川隧道(M21.12.)跡で検出したものは使用時期が確定的な最古の例。湖東線区間ではこの他にも田村駅~長浜駅間の五井戸川橋梁(M22.2.)から出胎したものとみられる瓦礫や長浜市旧長浜駅に併設されている北陸線電化記念館の展示品にこの印がある(駅構内の倉庫基礎から出胎したものとされる)。武豊線石ヶ瀬川橋梁の残骸とみられる煉瓦転石にはこの刻印と”ビー””イー”の形状指示を打刻したものが多く見られ、同橋梁はM24.6.に改築されているため、その頃までに製造されたものであることは確かである。その他市街地の転石としては碧南市新川町で検出した肉厚扇形異形煉瓦”エー”があり、また刈谷市街の大野煉瓦工場跡近傍でも見つかっている。

印の形状から碧海郡の三陶組の製品かと推測していたが、同工場は土管製造が中心で煉瓦を製造していたのは最初期の短期間だけだったようなので(『愛知県統計書』では土管製造で通年掲げられている)推定には少し無理があるかも知れない。むしろこの印は、東海道線工事に煉瓦を供給した記録がある四日市煉瓦のものと見るほうが妥当のようである。四日市煉瓦の供給のことは官報明治21年5月9日号にあり、同年3月中に請負・製造を始め、この月だけで厚形煉瓦62,332個を製造したという。

四日市煉瓦会社は四日市の九鬼紋七、日永の松岡忠四郎によって興され(『海蔵小誌』)、初期の三重県統計書ではM20夏頃に創業と記載されている。その後M26版の頃からM26.4.創業となり名称も四日市煉瓦製造所と改められており、この頃に組織の更改があったものとみられる(後の統計書ではこの名称で合資会社)。四日市煉瓦の刻印として知られる“△Y.B.”マークはM29竣工の北陸線旧山中トンネルで検出されているのを最古とし、中央本線愛岐トンネル群でも検出例があるほか、T7『大日本商工録 第一輯』に社章として掲げられていることを考えるとM26の改組以降の使用印ではないかと想像される。それ以前のM20~26頃に隅立て井筒印を用いていたとすれば上記検出例のうち年代が確定しているものについてはその範囲内に収まることになる。

実際四日市煉瓦が所在した東阿倉川村の村域で隅立て井筒印を検出することができた。現万古町一丁目の民家庭に舗石として使われているもので、宅の方に伺った話では以前から敷地内にあった古い窯業窯の煙突を解体した瓦礫であるという。正確な建造年は不明だが百年以上前からあるのは確かだとのこと。興味深いのはこの舗石の中に勢陽組や水谷工場の識別印とみられる大型カナ印の煉瓦も含まれていることだった。勢陽組工場が存続していた時期に作られたことが確かなわけで、それは上記推定年とよく一致するものである。なお勢陽組工場製品と隅立て井筒印がともに所在している例は西尾市尾澤歯科の縁石にもあり、三重県下で製造された煉瓦として一括され流通していたことを示すのかも知れない。

東海道線沿線で検出された刻印煉瓦はいずれも肉厚煉瓦で、内包する文字も “は+漢数字” あるいは “ハ+漢数字” であった、万古町舗石と西尾の舗石は厚60mm以下の普通煉瓦で “に+漢数字” 。鉄道用厚煉瓦と普通煉瓦とでグループを分けていたということだろうか。旧山中トンネルの “△Y.B.” 印も “と一” 等の識別印を併用してあり、改組前の区分法を引き継いだ可能性を伺わせる。中京でこの分類法を採用したのは他に岡田煉瓦くらいしかない。

以下メモとして残す古い記述:三陶組は北大浜村の商家で瓦製造や味噌醤油の醸造を生業としていた二代目角谷安兵衛によって始められた。創業にあたっては同村商家の岡本八右衛門、亀山竹四郎に、服部人造石の考案者として知られる服部長七も参与している。三陶組の主要製品は陶管であったようで、官営鉄道だけでなく九州や東北の鉄道会社にも採用されたという。なかでも山陽鉄道の使用した陶管はそのほとんどが三陶組製であったという(碧南市『碧南を駆け抜けた熱き風たち −碧南人物小伝−』二代目角谷安兵衛)。その一方で煉瓦製造も手がけたらしく、初期の統計書には煉瓦石土管製造業として掲載されているし、明治23年刊『尾三地理』下巻 p.167にも煉瓦土管製造会社と紹介されている。なお新橋駅跡から見つかった陶管のうちに「愛知碧海郡/三陶組製造」の文字刻印があり(例えば福田敏一『新橋駅発掘ー考古学からみた近代ー』p.217)、三陶組が隅立て井筒を使用した証拠は得られていない。

三陶組は明治27年に解散したが、その後を角谷安兵衛が引き継いで個人工場として操業を続けた(三陶社と改名?)。前掲『碧南人物小伝』では明治37年に味噌醤油製造に専念するため土管製造部門を他に譲渡したとあるが、『工場通覧』M40には煉瓦及瓦製造工場として角谷安兵衛の工場が掲載されており、瓦や煉瓦の製造は続けていたようである。

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