刈谷士族工場(刈谷就産所、大野工場)

東洋組の刈谷分局として始まった煉瓦工場。設立に協力した大野氏が東洋組解散後も生産を継続し、やがて大野氏(大野介蔵)の個人工場として中京一の煉瓦工場に発展した。

統計書等では明治25年創業の「刈谷就産所」あるいは「大野就産所」として記載され始めるが、東洋組以降M25まで間にすでに製造を盛んにしていたことが種々状況から窺える。明治末期~大正~昭和期には「大野煉瓦工場」として大野氏個人工場の色を強めた。ここでは東洋組以降を一括して「刈谷士族工場」とし、このカテゴリに分類しておく。大野工場の使用印として知られる井筒紋(大野氏の家紋・正体井桁)も東洋組以降早い段階から始まっていたようである。

西尾の士族授産所と異なり東洋組分局以降の経過がはっきりしないが、大野一造自伝『迎喜寿我足跡』(昭和33年・非売品)によれば、(ここには東洋組廃止のことは明示されていないが)当時の愛知県知事国貞廉平が上京した折に東洋組出資者であった大村公(大村純雄)や南部公(南部利恭)に会見し、資本を回収する意思はないが折角設立した煉瓦事業は誰か続いてやって貰いたいと伝えられたこと、その意向を受けて国貞知事も県で支援することを介蔵に伝えたという一文がある。介蔵はそれを受諾し煉瓦製造を継続したものの、やはり販路がなくて苦労したようである(昭和の『刈谷町誌』にもあるエピソードがやや詳しく書かれている。煉瓦を携えて名古屋に赴き、建築材料屋への売り込みを図ったが、これが煉瓦というものだとわかる者すらおらず、落胆してその煉瓦を納屋橋の上から投げ捨てて帰ったという)。なおこの間に「天工会社刈谷分局」を標榜し、工場前にその門柱を建てていたことが愛知県蔵公文書に見える(M18.7.頃)。また「天工会社刈谷分局」印の押された瓦が旧千葉県血清研究所の赤煉瓦建物に使われている。

「それから7、8年後に」鉄道省への煉瓦の納入が始まったと『迎喜寿我足跡』には記されているが、この数字は時系列が合わないことは東洋組刈谷就産所カテゴリで述べたとおりで、刻印煉瓦の検出状況からは明治17、8年頃にはすでに取引が始まっていたらしく見える(後述)。「17、8年頃に」の誤りであると読めば整合性が取れる。

最初に鉄道省に納入した煉瓦は出荷前に木枠で選別して規格に合うものだけを出したために都合1万本ほどにしかならず、経理担当の吏員に「10万本15万本単位でなければ代金を支払えない」と言われたという。しかしその際、窯出しに立ち会った検査員に「そんなことをしていては煉瓦は合格するものではない、私が見た限りではどれも合格だと思ったので全部持ってくるように」と言われ、その通りにした結果提出したすべてが合格したとも書かれている。当時の納入検査の様子が窺えて興味深い。なおこの煉瓦は武豊の工事事務所へ運んだとあるので武豊線建設や東海道線各所の現場に送られたものと思われる。武豊線石ヶ瀬暗渠などは非常に形の揃った上質な煉瓦が使われており上記エビソードを思い出させずにいない。また刈谷工場は逢妻川の川辺にあり、武豊とは上流下流の関係にあったので、運搬は比較的容易だっただろう。

この納入の成功で自信を得た介蔵は本格的に煉瓦製造を志向するようになり、大阪岸和田へ赴いて当地の煉瓦製造技術を学び、また窯焚き職人も一人借用して帰郷、職人とともに煉瓦焼成用の窯を築いたという(岸和田では登り窯を改良した窯を使っていて、一度に3、4万個を焼くことができた上に燃料も少なくて済んだとある。なお東洋組時代にはイギリス流の野焼き法で焼いていたことが『明治工業史化学編』にある)。「これで鉄道省からいくら注文を受けても応じられると自信が出来」、煉瓦製造を盛んに行なった。以上、書かれてあることを真に受ければ、鉄道への煉瓦納入の頃から焼成法や品質が大きく変わったことになる。東洋組を創始した斎藤実堯は宇都宮理三郎の師弟であったので東洋組工場は関東系の技術導入で始まったと言える。そこにある時期から関西系の焼成技術が加わったわけである。なお昭和の『愛知県史』(第3巻)p.118には鉄道省から200万本を受注したと記されている。

こうしたエピソードを裏付けるように、東海道線赤坂川橋梁(M18.10竣工)武豊線石ヶ瀬川橋梁(M24.6竣工)などM25以前に建造された煉瓦構造物から井筒印が検出されている。赤坂川橋梁の煉瓦は杭瀬川の川底から採取したもので、複線化時のものも混じっている可能性があるが、長浜~関ケ原~大垣間の初代煉瓦構造物に共通の特徴があることから初代構造物由来のものと考えたい。後者は複線化を経験していない橋梁であるので明治24年以前に製造されたものであることは高い確度で確かである(詳細は「形状指示 大野工場」参照)。

いずれの刻印も径約5分の正方形の井筒で非常に細い書体の漢数字を内包する。赤坂川橋梁の煉瓦は後年の東海道線工事やM29規格にも採用されたC形の扇形異形煉瓦(厚2-1/4”)で、”シー”字の形状指示印も押されている。東海道線工事で大々的に採用されることになるカナ表記の源泉として注目したい。後者は”F”、”G”の形状指示がある肉厚異形煉瓦で、天竜川橋梁(明治20年1月着工、明治21年11月竣工)など大型の楕円形井筒のために作られたものと推測される。

”F”、”G”形状指示印の異形煉瓦は刈谷の工場所在地の近傍でも見つかっており、興味深いことに正体の井筒ではなく菱井桁で漢数字を囲んだものも検出された。菱井桁・井桁のパターンは他にもいくつか検出事例あり。この時期には特に拘りなく井筒・井桁を混用していたようである。

井筒印は後年になるほど大型化し縦長になっていく傾向がある。東海道線石部トンネルの延伸部(明治44年複線化時の構造物)や刈谷市司町に残っている煉瓦積み擁壁には1寸四方の大きなものが見られるし、大正5年~8年頃に建設された養老鉄道の多度津変電所由来の煉瓦も縦長大型の井筒印が認められる。

どの時代の製品にも共通しているのは、径数ミリの白色結晶質の石粒を多く含んだ比較的均質な胎土である点(断面写真)。平はもちろん長手小口にもこの小石粒が露出していることがあり、構造をなしている場合でもそれと気づくことができる。また平面は両面とも丁寧に撫で整えられていて、関西地方で見られるような筋状の作業痕はほとんど見い出せないか、あってもごく微かな痕跡になっていることが多い。その一方焼き色は全体的に赤みが強く関西地方の古煉瓦を彷彿とさせるものがある。関東系の丁寧な成形法と岸和田から導入した関西系の窯技術が融合したものと言えるかも知れない。ただし大野工場の製品は焼成時に重ね合わされていた面が顕著に赤く発色してその面だけが常滑焼の肌の如くになっていることが多い。このような焼き上がりの煉瓦は京阪神地域ではあまり見ない(強いて言えば豊岡の中江煉瓦製品がこれに似ている)。

明治40年代には大野一造名義の大野煉瓦工場も興り、両者がしばらく併存していた時期もあるようだ(一貫して会社化はせず個人工場のまま継続。なお大野一造氏は大連の耐火粘土鉱山を開発したり東洋耐火煉瓦や九州耐火煉瓦の設立に関わったりしているが大野工場の経営にはほとんど関与せず、むしろ政治家に後半生を費やしその方面の功績が大きい)。昭和6、7年頃には統計書から姿を消すが、これは煉瓦需要の低迷に加え、逢妻川改修によって搬出用の引き込み水路が機能しなくなることになったのもきっかけであったという(『迎喜寿~』p.42)。工場跡地は戦後になって刈谷町に寄贈され昭和25年に刈谷市営競技場が建設された。球場の西側道路傍には大正時代に建てられた大野定顕彰碑があり、その足元に焼き窯を構成していたとみられる部材の一部が積み上げられている。煉瓦と呼ぶにはあまりに大きい切り石大の陶製品である。

「 刈谷士族工場(刈谷就産所、大野工場)」カテゴリーアーカイブ

WP Twitter Auto Publish Powered By : XYZScripts.com