『日本鉄道請負業史』第一巻 (関西煉瓦製造業創始)

煉瓦製造 本区間には三河底隧道を始め大小橋梁等、煉瓦を使用する箇所が頗る多かった。鉄道当局は是等所要煉瓦を製造するため、明治三年堺、大浜通り元凾館物産集会所敷地を堺県より譲り受け、ここに煉瓦製造所を設け、大属原川魁助、中属長谷川彦兵衛をして其衝に当らしめた。

当時は煉瓦製造に明かなる者がなかったので当局は京都府、兵庫県等へ照会して陶器又は瓦造の職人等を招集し、雇外人より製法の教授を受けしめたのである。この時、堺の瓦製造人丹治長蔵なるものが職工長となり、窯は陶器屋慣用の登り窯を三座築造し、一座を八室乃至十室に区分し、これに白地煉瓦一万二、三〇〇〇枚を一緒に容れて焼いた。煉瓦に小煉と白地との別あり、小煉は足踏であり、白地は手押式に依るもので木枠の型を用い、天日で乾燥して焼くのである。原料たる粘土は製造所を距る十町乃至二十町の万代八幡付近より採取したが、その粘土の質佳良なりしを以て形正しく堅緻にして石を凌ぐほどの良質煉瓦を製出することが出来た。是等の煉瓦は小帆船に積載して、大阪、尼ケ崎、西ノ宮、神戸等に送り、それから先は車力に積んで、それぞれ現場に搬入配給したのである。

この煉瓦製造所は明治六年夏、鹿児島県人永井庄右衛門、原口亀太郎両人が地所建物機械一切を払受け爾後の製造に当り、製品は必要に応じ鉄道寮で買上げたのである。(復刻版pp.17-18)

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