三重勢陽組

明治18年に桑名郡柚井村(現桑名市多度町柚井)に創業、20年頃には河曲郡岸岡(現鈴鹿市)にも分工場を設けるなどして盛んに煉瓦を製造した。竹内仙太郎による菅島灯台用煉瓦の製造に次いで古く、商業的な製造は県下初と言える。桑名の工場は明治22年3月に水谷工場(個人工場)となり、鈴鹿の分工場もM27の資料では単に煉瓦製造場となっている。

農商務省『分析報文. 第2冊』にワグネルによる煉瓦製造用粘土試験報告が掲載されているが、これは勢陽組小林某の依頼によるもので、科学的知見をもとに煉瓦製造を開始したことが知れる。また明治23年に開催された第三回内国勧業博覧会に煉瓦を出品しており、その際に提出された解説書が一橋大学レポジトリに所収されている。この頃には勢陽組は解散し水谷政兵衛の個人工場となっていた。

第三回内国勧業博覧会 第一部二類 解説書

出品人名 三重県伊勢国桑名郡桑名町今一色幸町八
 平民工業 水谷政兵衛

産地製造場

三重県管下伊勢国桑名郡多度村大字柚井へ明治十八年本場(間口二十四間 奥行二間半)建物二ヶ所(間口十二間 奥行四間半) 建物壱ヶ所 附属建物七ヶ所 並 焼窯(長十二間三尺 幅三間三尺)壱ヶ所 仝上(長十四間三尺 幅三間三尺) 煙突(長さ百廿尺 曲り四十八尺)を築き製造す

素質

伊勢国桑名郡多度村字多度山より出る土を掘採し運搬し人力に依り鋳鍬を以て粉砕して素質とす

製造法

水を加えて素質を鍬にて煉り其適度に至れば此れを凡その恰好によく築き固め木製形に容れ撫で板にて表裏を均らし形箱を脱し牽握へ打板を以て四方を打固めたる後凡五日間日光にて干乾し後四万個を一と窯に入れ薪材を以て凡五昼夜焚き成形を終る

開業沿革

明治十八年勢陽組と称し数名の団結を以て開業し専ら洋和参酌の法に依り製造し来りしが本年一二月勢陽組を解散し水谷工場と改め自分一已の業務とせり但し製造法等は従前の通り

製造機械

大鍬 鋳鍬 干板 打板 撫板 形箱 等の類にして普通のものを用ゆ

製造人名

伊勢国桑名郡桑名町大字今一色寺町水谷精一外工男百廿人工女三拾人

産出種類

鉄道用 家屋用

販路

神戸鉄道局 関西鉄道会社 東京大阪名古屋等なり

産出製造並販売高統計

明治廿二年 自一月至十二月 産出製造高三百六十万個此販売代価凡金弐万五千円

現桑名市柚井から多度大社方面へ向かう旧道の傍らに勢陽組印の煉瓦が多数転じている畑がある。癒着した焼損煉瓦も多数見られ、この付近に窯があったものと推測される。転石の多くは肉厚の異形煉瓦で、勢陽組印のみ押されたもの大型カナ印を押したものとがある。後者には”エー”、”シー”等の添印も押されたものがあり、これは異形煉瓦の形状分類を示す(”A”、”C”)ものと見られる。桂川橋梁の複線化増築井筒に見られるA~Cの刻印と形状との対応に状況は似ている(c.f.桂川橋梁 英字)。

分工場があった河曲郡若松村岸岡でも同様の勢陽組印を見ることができる。明治23年測図1:20,000地形図「若松村」には、大字千代崎の南方、現在ファミリーマート千代崎店がある辺りに大きな窯業工場が描かれており、これが勢陽組分工場であったようだ。千代崎や岸岡では勢陽組印とともに「伊勢白子 盛進組」という刻印の煉瓦も検出される。勢陽組と盛進組の関係は今のところ不明であるが、分布状況などから盛進組は勢陽組の前駆体として稼働していた工場ではないかと想像される。

明治19年~20年頃に建設された東海道線名古屋~垂井間の橋梁のうち、木曽川橋梁と揖斐川橋梁で”エー”、”ビー”、”シー”のカナ表記により形状指示された煉瓦を見ることができる。濃尾地震の被害が少なく、大きく改変されずに今日に至っている 揖斐川橋梁第4橋脚にもこの形状指示刻印の煉瓦が使われていることから建設当初からこの用法が採用されていたのは間違いない(そしてそれが厚75mm前後にもなる肉厚煉瓦に押されているのも興味深い。山陽煉瓦が山陽型を採用するようになるよりも前のことである。また桂川橋梁の複線化によりA~Cの3種類で建造されるよりも早い)。ただし三川の煉瓦構造物に見られる形状指示表記は勢陽組工場跡地で見られるものより二回りも三回りも小さく、また漢字やカナを四角で囲った小さな添印を伴うこともあり、勢陽組の大型カナ印とは異なる傾向がある。現状見つかっているこれらは少なくとも勢陽組製品ではないようである。もし勢陽組製品であれば勢陽組印を伴っていても不思議でない。(路線構造物の建造年・改修年は鉄道線路各種建造物明細録. 第1篇orテキスト化したもの参照)

勢陽組印+カナ印の煉瓦は新橋駅発掘調査現場から見つかっており(但し構造体としてではなく遺棄穴の底から単体で)、また米原市旧中山道沿いの民家跡でも同じ構成のものが見つかっている(下掲載)。桑名市の諸戸家住宅(現・六華苑)の煉瓦蔵や外周壁にも勢陽組印が見られるが、カナ印の添えられたものは未見。六華苑ではむしろ形状指示+カナ印の異形煉瓦が目立つ(煉瓦蔵もかなりの部分が異形煉瓦を転用して作られている。壁を見上げると小口や長手がわずかに膨らんでいるのが確認できる。煉瓦蔵は放火で焼失し明治28年に再建したものとされていて〔三重県教育委員会事務局 社会教育・文化財保護課サイト〕、その際地元産煉瓦で大慌てで作り直したと伝わっていると現地のボランティアガイドの方に伺った。蔵建設のために異形煉瓦を製造することは考えられないので、在庫していた異形煉瓦をかき集め、流用してまでして建てたということなのだろう。

関西鉄道の加太トンネル以東では大型カナ印のみ確認できている。この区間は明治23年12月に開通しているので勢陽組後継の水谷工場が供給したものだろう(ここでは勢陽組カナ印と呼ぶことにする)。

勢陽組工場は木曽三川の合流地点にも程近く、官営鉄道の工事にも煉瓦を供給した可能性が考えられるが、現時点でこれら構造物に検出されているのはノーマルな大きさの形状指示刻印ばかりである(円形井筒”エー”等のカテゴリで別置)。木曽川橋梁は当時の構造が現存せず(現存するのは濃尾地震後に作り直された井筒のはず---震災予防調査会報告を見る限りでは)、長良川橋梁は鋳鉄管製→楕円形大型井筒、揖斐川橋梁は第一・第三橋脚を全改築し第二第四橋脚は補強のみで継続使用し今日に至っている(小西純一「明治時代における鉄道橋梁下部工 序説」や震災予防調査会報告書第一集「東海道鉄道線路震害及復旧工事報告書」、坂井田実、所哲也、小坂潔彦「旧揖斐川橋梁における濃尾地震後の復旧工事に関する考察」〔土木史研究講演集 Vol.34 2014 〕参照)。

勢陽組の異形煉瓦は、官営鉄道よりも関西鉄道への供給がメインだったと見られる。桑名~名古屋間は明治27~28年頃に開業しており、その際製造したものの残余が諸戸家煉瓦蔵(および屋敷囲繞壁)に転用されたと考えれば辻褄も合う。


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