桂川橋梁 英字刻印

JR東海道線桂川橋梁の京都方に12ft円形橋脚井筒の基礎部分が残存しており、この残余部や周囲の転石にアルファベットの刻印が確認できる。橋脚遺構は現行橋脚を挟む形で上流側と下流側に1つずつ存在し、各遺構の煉瓦のうちではアルファベットと異形煉瓦の形状が対応している。即ち施工位置を明示するために押された刻印と考えられる。

明治25年(1892)発行の『鉄道線路各種建造物明細録』によれば桂川橋梁の橋脚は明治9年に建造された12ft円形橋脚であった(小野田滋『阪神間 ・京阪間鉄道における煉瓦 ・石積み構造物とその特徴』表-1)。一方桂川橋梁は明治31年に複線化されており、残存する2橋脚のどちらかが古くどちらかが新しいと考えられる。実際上流側の煉瓦は厚58mm前後、下流側は厚76mm前後と厚さが極端に異なっている。

円形橋脚(井筒)に使用する煉瓦の形状は明治29年8月31日鉄工1749号(課長達)によって定規化され、9ft橋脚についてはC-E、12ft橋脚ではA-C(Cは両者共通)の計5種類が策定されている。しかし桂川橋梁遺構では”A”、”B”、”D”、”E”のほか”C”に相当すると思われる刻印の煉瓦も見つかっている。採取した煉瓦の実寸、打刻位置を整理すると以下のようになる。

すなわち厚58mm前後の異形煉瓦には”A”、”B”、”D”、”E”の4種類があり、これらはM29の定規で示された形状と一致しない。そうしてこの厚さの煉瓦が上流側橋脚遺構には使われている。定規策定以前の試行錯誤期の作、すなわち上流側がM9建造の初代の橋脚であるのだろう。

天神川を挟む位置にある現行橋脚の小アーチにはくるくると巻いたような記号が小口に打刻されている。この小アーチは円形井筒間に架け渡したもので(おそらく径6ftの真円に近い欠円アーチ。井筒の芯-芯間が約18ftであった)、この記号のある煉瓦を井筒瓦礫の中から採取し、採寸すると、2面ある長手の厚さが明らかに異なる(参照)。すなわち横ぜり形の異形煉瓦で、それを区別するために打刻された”C”であったのだろう。

一方、下流側基礎に見られる厚75mm前後の異形煉瓦は、その平面形状と”A”、”B”、”C”の打刻がM29定規で指示された内容にほぼ一致している。下流側基礎にはこの煉瓦が用いられており、こちらが複線化時に建設されたものであろう(下流側サイズの異形煉瓦に堺煉瓦刻印が押されたものも検出されている。堺煉瓦はM26創業である)。ただしM29定規では煉瓦の厚さを2インチ1/4(57.2mm)としておりこの点は実物と一致しない。上下線で厚さの異なる煉瓦が用いられているのは旧上神崎川橋梁橋脚も同様である(2018年秋~2019年秋撤去予定)。

なお、河川敷にあって現役使用されている煉瓦橋脚も、上流側の構造にのみ”C”と考えられる刻印の煉瓦が使用されている。この橋脚も下流側に添え継いだ痕跡があり(明確な継ぎ目は見られないが上流側下流側で煉瓦厚が異なる)、橋脚井筒遺構から判断される状況に一致している。

小野田氏の調査では、東海道線浜松駅以西野洲駅付近にかけての煉瓦構造物で厚さ70mmを超える肉厚の煉瓦が多く見つかっている。建設時期で言えば明治22年~30年頃に建造されたものである(『鉄道と煉瓦』pp42-44。他にも桂川橋梁西側の暗渠、大津駅東方の暗渠、膳所駅ロータリー改修時に掘り出された煉瓦、甲賀市葛城の杉本煉瓦製品---M21-30頃操業---にも肉厚煉瓦が目立つ)。この頃官設鉄道の建設にそのような肉厚煉瓦が慣例的に使用されていて、M29の定規策定後も厚さを旧慣のまま製造してしまった結果が桂川橋梁・上神崎川橋梁下流側橋脚の煉瓦なのではないか。この厚さの煉瓦は明治18~22年に操業した勢陽組の製品にも見られ、出自はそちらのほうが古いようである。明治19年に竣工した揖斐川橋梁でも肉厚煉瓦が使用されていた(同24年の濃尾地震で被害を受けて改築されているが部分的補修で済んだ橋脚でも肉厚煉瓦が見られる)。

厚75~78mmの煉瓦は煉瓦厚3インチを想定して作られたものと見られる(3インチ=7.62cm)。明治36年第5回内国勧業博覧会には堺煉瓦と貝塚煉瓦が「三吋型」煉瓦を出品しており、並型や作業局型と並ぶ煉瓦規格の一つとして三吋型が存在していたことが想像される。なお明治21年から建設が始まった山陽鉄道では厚2寸3分(約69mm)という厚めの煉瓦が基本形として採用されていた。これは目地も合わせて3インチとなるよう設計されたものであるという(『鉄道と煉瓦』)。


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