貝塚煉瓦

明治25年南郡貝塚町に田端治平の個人工場として始まり、明治27年6月26日に株式会社化。社長田端治平(「日本全国諸会社役員録」明治27年鈑)。同40年(9月?)に大阪窯業に吸収合併され消滅。

明治29年度には481万3260個/4万1201円51銭の製造実績(朝日新聞東京版1897年4月15日朝刊6ページ)。これは岸和田煉瓦の1000余万個、堺煉瓦の650余万個に次ぐ規模。最盛期は明治30年代にあったらしく、この時期に建造された構造物---南海本線宇治橋梁(和歌山市・M31開業区間)、関西鉄道鹿背山隧道(M31)、兵庫県湊川隧道(M33)、等---から頻繁に検出されている。

『大阪府工業概覧』(M36.1)に同社の概略あり。この頃神戸・大阪へ七分、中国・九州へ三分の輸出。多くは鉄道用・倉庫用で、入札又は指命に依り供給をなし、代金は現品を需要指定の場所へ持込み検査を受けたのちに支払いを受けるという営業形態であった。

日本工業要鑑 第2版』(明治40年)広告に井桁印の社章が掲げられている。井桁刻印は他にも二代目和泉煉瓦と推定される太い菱井桁、吉野煉瓦のものと推定される太い正菱井桁、岩橋煉瓦の正体井桁などあり、検出場所や建造物年代などをもとにして切り分けする必要がある。貝塚煉瓦の菱井桁と考えられる刻印も、正体に近いもの、ひしゃげたもの、サイズ大小など種々のパターンあり。宇治橋梁や鹿背山隧道では小口長手に押されたものも検出されている。

また菱井桁の中に「K」を刻むもの「カ」を内包するものも見つかっている。前者は和歌山煉瓦の分銅印と共使いになった例があり、香川県高松市の香川煉瓦の製品とみられる。後者は明治20年代後半~30年代に鉄道用に採用された厚煉瓦に押されており貝塚煉瓦製品の可能性がないわけではない。実際工場近傍で井桁菱に「カ」字を添えたパターンが見つかっている。貝塚煉瓦の製品は添印がないのが常なので、この「カ」は貝塚煉瓦のカを示すものと思われる。

なお大阪窯業への吸収合併後、田端治平は大阪窯業役員に就くかたわら新たに貝塚町に瓦製造会社を興している(明治41年府下工場資料?)。


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