T10.7.14 鉄道一瞥(堺の官営工場)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899286/54

附録 鉄道瑣談

○煉瓦創製の事

 東京横浜間創業の際には世に煉瓦製造者なく又沿線附近に佳良の粘土なければ創製すること容易ならず、依て石材のみ使用したり、大阪神戸地方にも最初煉瓦製造者ある筈なきも堺附近に恰好の粘土産出し且つ燃料として紀州地方より松薪を得ること容易なれば鉄道寮は此の地に煉瓦創製の計画を立てたり

 堺大浜通に旧幕府に属せし函館物産会所の廃邸あり、周囲広闊にして掘割を以て港口に通し小船出入の便あり、当時堺県の所轄なりしが鉄道寮其の引継を受け之に煉瓦製造所を設けたるは明治三年某月なり、製造の主任者は中属長谷川彦兵衛にして大属原川魁助庶務を総理し製造総指揮者は傭外国人にして外に数十名の官員従業し従来当地の屋根瓦製造業者たりし丹治長蔵なる者職工長として勤務せり、当時煉瓦製造を知るものなきを以て鉄道寮は京都府、兵庫県へ照会して管内の陶器職工又は屋根瓦職工を命令的に堺に召集し傭外国人之に製造法を教授したり、窯は陶器職が慣用せし登り窯三座を築き一座は八室乃至十室にして白地一万二三千枚を容るに足れり、土煉は足蹈にして白地は手押式に依り型は木枠を用い風日に乾燥せしむ、粘土は製造所を距る十町乃至二十町の万代八幡辺にて採取し胴木は紀州又は四国産を集め差木は赤穂の小割材を用いたり、粘土質は佳良なるを以て形状正しく且つ堅緻にして石を凌ぐ如きものを製すを得、品位は三等に分ち上中下とせり、而して製品は小帆船を以て大阪、尼ヶ崎、西宮、神戸に運搬し各建設所に車力を以て配給せり

 明治五年の秋中属岡崎正作、権少属村井正利の二人堺製造所勤務となり従来の官員は概ね転免せられ只二三の等外吏をとどめたり、是れ従業員多きに過ぎ経費嵩むを以て冗員を淘汰し製造所の経済を維持せんが為めなり、爾来岡崎、村井の二人之が経営の任に当りしが村井(後鉄道属、事務官は一介の漢学書生にして煉瓦の知識あらざりしも前に東京府に奉職して教育所掛に勤務し稍々細民の事情を解し之を使うに慣れたれば専ら職工に接触して製造法を究め火度火色の判断に熟するに至り監督肯綮を得て漸次経費も節減し得たり、後明治一九年東海道線起工に際し江尻、金谷、中泉の三箇所に煉瓦工場を設け沼津天龍間に遅滞なく供給したる成績は明治五年の堺に於ける経験に基くものと村井自ら常に語れり

 明治六年の夏に至り堺煉瓦製造所払下の議寮内に起り鹿児島県人永井庄右衛門、原口亀太郎の両人に地所建物機械一切を払下げ製品は必要に応じ時々買上ぐることと成れり、是より先中属岡崎正作は本寮に還り少属宇都宮正信代って来任したりしが払下決定の命に接し村井と共に他に転じたり

pp.55-56

http://bdb.kyudou.org/?p=8796

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