東雲新聞 M21.9.8/関西煉瓦、ハンター商会

大阪の難波治郎三郎、和田安兵衛氏等が播州舞子の濱に煉化石製造所を建築中なる事は日外も記載せし所なるが今又聞所によれば右資本金は十万円にして本年末迄には機械の据え付け等悉く整頓せしめ明年早々開業して製造に着手する見込なりと尤とも其の製造用に供する土は同地近傍の山を開削し一日に幾万個にても製造せらるる大機械を用い該機械は株主なる神戸居留地二十九番「ハンター」商館の手を経て英国より買い入れりといふ

http://bdb.kyudou.org/?p=8794

5件のコメント

  1. 突然夜分にすみません。
    福岡県飯塚市教育委員会(歴史資料館)の八木と申します。自宅からメールしています。
    私の方で以前目尾炭坑跡の煉瓦敷台座などから多くの関西煉瓦(ハンター特製煉瓦)
    を発掘調査で検出しました。今回、一連の新聞記事などを拝見しまして、いろいろ
    とわかることが多くあり、ありがとうございました。
    当市の煉瓦敷台座の年代的位置づけが明瞭にできていないのですが、この煉瓦が検出され
    ると、時期がある程度特定できるものでしょうか。古くて明治22年頃で製造が終わるのは
    いつ頃のように特定できるのでしょうか。
    また、工場が移転してますが、最初の場所と舞子のあたりとで現在もわかるような資料等
    があるのでしょうか。ご教示いただければ幸いです。

    1. 永冨です。お問い合わせいただきありがとうございます。関西煉瓦は来歴が比較的はっきりしていますので、ご高察のとおり物件の建造時期推定に使えます。創始は明治21年、おそらくその年の暮れ頃から翌年にかけて製造を始め、かなり大規模に生産をしたようです。明治25年頃に不況に陥り、解散・清算をしていると報じた新聞記事もありますが、その後も存続して生産を続けた形跡があります(以上 https://bdb.kyudou.org/category/bchj/ )。
      お尋ねを受けて改めて調べてみましたら、明治33年11月29日に解散したことが官報1900年12月14日号に記載されていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/2948531/1/11)。よって関西煉瓦の製品が使われている遺構は明治21、22頃~33年頃のものと考えてよいと思います。

      出土した煉瓦の特徴によっては時期をもう少し絞り込むことができるかも知れません。関西でよく検出される製品は、平に凹みをつけ、その底に文字と社章を陽刻したタイプ

      https://bdb.kyudou.org/2020/04/24/%e9%96%a2%e8%a5%bf%e7%85%89%e7%93%a6%e6%ad%a4%e8%8a%b1%e5%8c%ba%e4%bc%9d%e6%b3%955/

      で、同じものがアサヒビール工場建物(大阪麦酒會社:M22創業)や大阪紡績などに使用されていた記録がありますので、これが最初期の製品なのではないかと想像しています。これ以外に、平に凹みをつけずに文字・記号を陰刻したタイプ

      https://bdb.kyudou.org/2020/01/04/%e9%96%a2%e8%a5%bf%e7%85%89%e7%93%a6%ef%bc%88%e9%99%b0%e5%88%bb%ef%bc%89%e5%9e%82%e6%b0%b4%e5%8c%ba%e8%a5%bf%e8%88%9e%e5%ad%901/

      もあり(厚さ3インチのものと2-1/4インチのものあり)、これは工場近傍で多く見られるため、創業末期に製造されたものかも知れないと思っています。

      目尾炭鉱跡の発掘調査で出土したことは存じ上げませんでした。どのようなパターンの製品が使われていたのでしょうか。また煉瓦の寸法などは計測しておられますでしょうか(発掘調査報告書の残部があればぜひ購入させていただきたく思います。お教えいただけますと幸いです)。

      1. 追記

        工場の所在地については明確な記録がありませんが、小曽根時代の工場はこんにちの豊中市若竹町1丁目の住宅地付近にあったようです。住宅地となる以前はNTTの関連施設があり、その解体や整地に伴う発掘調査で煉瓦が出土したと、豊中市教育委員会の方に伺ったことがあります。

        https://maps.app.goo.gl/wW3x7RdyGSrmk25J6

        関西煉瓦会社時代の工場は「垂水村の内山田村」に所在したとする資料があり、また山陽鉄道の車窓から工場が見えるとした旅行案内記が多く存在しますので、神戸市垂水区西舞子1丁目付近にあったものと想像しています。同所やその西の明石市大蔵町を歩くと今でも多数の関西煉瓦製品を見ることができます。

        https://maps.app.goo.gl/no29wjGMxKZda3rd6

        1. いろいろご教示ありがとうございます。
          報告書は残部がありませんが、取り急ぎ煉瓦の部分を送付させていただければと思います。
          送り先を教えていただければと思います。
          当市の目尾炭坑跡ですが、明治13年に杉山徳三郎がスペシャルポンプによる排水に成功し、採掘を本格的に始めます。明治29年に古河市兵衛が買収しており、その時期に炭鉱施設を大きく変えたりしています。よくわかっていないのは、当時炭鉱の大手が炭鉱施設を造る際に煉瓦会社から調達している状況が資料からみれるかどうかです。当時の鉄道の建設も同様の状況がみれるのでしょうか。目尾炭坑跡からは他にも讃岐煉瓦や推定堺煉瓦が出土しています。関西煉瓦はその時期(明治29年頃)になるのかどうかはまだ検討中のところです。
          発掘で出土し、報告している関西煉瓦は49点あります。表面はプレスで窪んでおり、約半数は裏面も窪んでいます。刻印について、中にはB.C.  H.J.ではなく
          B.C. H J のようにドットがないものもあります。
          現在もこの煉瓦が現地でみられるとのことですが、作成された地図に落としてあるところは
          現地でもみれるのでしょうか。

          1. 当市の目尾炭坑跡ですが、明治13年に杉山徳三郎がスペシャルポンプによる排水に成功し、採掘を本格的に始めます。明治29年に古河市兵衛が買収しており、その時期に炭鉱施設を大きく変えたりしています。よくわかっていないのは、当時炭鉱の大手が炭鉱施設を造る際に煉瓦会社から調達している状況が資料からみれるかどうかです。当時の鉄道の建設も同様の状況がみれるのでしょうか。

            私も詳細には調べられていませんが、鉄道会社でも調達関係の資料や情報が伝わっていることはほとんどないようです。鉄道史関連の論文でもそのような資料の存在を見たことがなく、あっても非常に稀なことではないかと思っています。一方、煉瓦工場側の納入記録は、岸和田煉瓦については累年の帳簿が存在し、それを分析された論文を見たことがありますが、こうした工場側の資料も稀にしかなく、偶々残っていることに期待しないといけない現状だと思っています。
            (あとは当時の新聞記事や雑誌などで取り上げられているのを拾っていくしかないようです。九州鉄道も明治20年代に堺から煉瓦を送ったとする新聞記事がありました)

            現在もこの煉瓦が現地でみられるとのことですが、作成された地図に落としてあるところは現地でもみれるのでしょうか。

            行けば確実に見られる(刻印を確認できる)という意味では、大阪市の玉造神社の壁くらいかも知れません。これは昨年秋にも現存を確認していますし、神社の方もこの壁の煉瓦が貴重なものであることを把握しておられるようです。

            https://bdb.kyudou.org/2017/11/19/%e9%96%a2%e8%a5%bf%e7%85%89%e7%93%a6%e7%8e%89%e9%80%a0%e7%a8%b2%e8%8d%b7%e7%a5%9e%e7%a4%be/

            地図にプロットしたものは、煉瓦単体で路傍に転がっていたものも多く含んでいますので、検出時から状況が変わっているものが多いものと思います。工場最寄りの西舞子一丁目付近も近年再開発が進んで、ここに掲げているものの多くが無くなっていました。その西の、大蔵町内の転石は未だ残っているものが多いかも知れません。
            壁や路面に埋め込まれた状態だったものも付近の再開発で失われたものが多いようです。淀川区十三東のもの、大阪市西九条のものなどはGoogleMapsで見る限り亡失しています。

            (各ページに刻印を検出した年月日が表示されるように改良しました。10年以上前の検出例は亡失の可能性が大とお考えいただいてよいかと思います)

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