堺煉瓦株式会社

●堺煉瓦株式会社 堺市戎島附洲新田に設立しある共立煉瓦会社の資産を購入し其名称を改めて大阪西区新町南通五丁目百八十九番屋敷高木嘉兵衛氏より発起人総代として昨日出願せり且つ此は既設の会社にして已に事業に着手しあれば至急認可ありたき旨を申添えたり会社資本金は十万円
(大阪毎日新聞明治26年6月17日第2面)

●堺煉瓦株式会社
堺市吾妻橋通二丁
○設立年 明治26年6月
○目的 煉瓦製造販売
○資本金 10万円
社長 福本元之助
取締役 辻吉敬
同 市川六郎兵衛
監査役 岡崎栄次郎
同 正野玄三
同 青木嘉兵衛
支配人 岡村猪之吉
(『日本全国諸会社役員録』M27)

堺煉瓦株式会社
大阪府堺市吾妻橋通二丁
電話堺一五六番
▲設立年月 明治二十六年六月
▲資本金 二拾五万円,一株二拾五円,払込高七万円
▲沿革 同社は元共立合資会社と称したりしを明治二十六年株式会社に変更したるものにして其存立期間は廿ヶ年なり.同社の盛時は設立より二十八九年に到る迄にして此間常に二割有余の配当を為したるも三十年以来は需要の減少,同業者間の競争等の為め従前の如く利益を得る能わずして其配当も六分に降りたるが本年に及びて較や好況を呈するに至れり
▲製品の種類及其価格 同社製作品は並型煉瓦及東京形煉瓦の二種にして並型は一個に付七厘,東京型は七厘五毛なり
▲原材料及其産地 原料は粘土にして大阪府泉北郡百舌鳥村より出ず
▲製造額 同社過去五年間の製造額は左の如し
三十年 7,100,000個
三十一年 4,000,000個
三十二年 4,100,000個
三十三年 5,900,000個
三十四年 7,600,000個
▲販路 大阪,神戸,九州,山陰道,台湾,朝鮮等
▲販売の手続 大口は入札に依り小口は臨時販売す,朝鮮等への輸出は同社直接の取扱に係るときと又間接輸出の場合あり
▲役員 取締役福本元之助,武内四郎,岡村猪之吉,佐野幸助,監査役員広岡信五郎,正野玄三,高木嘉兵衛
▲雇人職工数 事務員十二人,職工三百人(内二百人は囚徒を使用す)雑役五十人
(『大阪府工業概覧』M36.1)

堺には明治20年~21年頃にも堺煉瓦会社(堺煉化石会社)という名の煉瓦製造会社が存在し、三本線社章を用いていたことが知られている。この堺煉瓦会社は海軍にも煉瓦の納入実績があった宮崎商会が(煉瓦製造部門を独立させて?)設立したもので、後年興る堺煉瓦株式会社とは無関係であるらしい。明治21・22年頃には堺煉瓦製造業組合の筆頭を勤めていたが、その後本社を大阪市西区堀江橋?に移転した頃から急に姿を消す。なお丹治煉瓦の最初の工場(少林寺町)が同社の第一工場を、青山商会が第三工場を名乗っていた(前者は東雲新聞広告。後者は滋賀県公文書)。

共立社はM22.7. 設立の会社で、これを買収して新たに堺煉瓦株式会社が興ったとされる(M34『大阪府誌』など)。正確に言えば共立社から堺煉瓦株式会社へ発展的に改称したものであるらしい。大阪毎日新聞M22.6.22 2面に共立社の会社設立出願があり、「高木嘉兵衛外五氏の発起」とある。高木嘉兵衛は堺煉瓦株式会社の発起人総代でもあった(冒頭朝日新聞記事参照)。

工場所在地は堺市吾妻橋通2丁と記されることが多い。資料上はM26.6設立とされているが、M25.4.に竣工した友ヶ島第4砲台弾薬支庫には堺煉瓦の五本線刻印の煉瓦が使用されている。前掲新聞にも「すでに営業中」とある(これが共立社を指すようにも、買収した側の会社のようにも読めるが)。以上の状況から、少なくともM25春にはすでに五本線刻印が使用されていたことは確かである。

明治20年代~30年代を中心に鉄道建設工事に盛んにcontributeした。故に各所の鉄道構造物で刻印を見ることができる。大阪鉄道桜井線神武架道橋(M26.5.開業)に見られるものなどが最初期の例。その他旧北陸本線の隧道群(M26~29)、吉野鉄道薬水橋梁(T1)、天理軽便鉄道橋台(T4)にもある。

初期の刻印?には中央にかな・カナ・漢数字の添印があることが多い。新旧で添印の種類が変わることはないようである(M33狼川トンネルではかな、神武架道橋でもかな、M29北陸線山中トンネルでは漢数字、M25~30由良要塞ではカナが多い)。此のタイプの刻印は煉瓦の端に押されることが多く、構造物の笠石や繰形の裏でも見つけやすい。

社章の如き明瞭・等間隔な五本線の刻印以外にも、添印のない線描のような五本線も見つかっており、これば会社末期に分工場で使われていた印と想像される(大阪狭山市の分工場周辺で焼損煉瓦に打刻されたものを検出。明治39年竣工の二代目船坂トンネルにもこのタイプの五本線刻印煉瓦が用いられている。和歌山市加太の元変電所建屋にも同様の印あり)。

『工場通覧』明治40年版から蒸気力の原動機60馬力1台の保有が記録されるようになり、この頃には機械成形を開始していたと考えられる。ただし『大阪府下会社組合工場一覧』明治42版では20馬力1台となり、『日本工業要鑑』第5版(明治45、46年:明治44年7月データ取得)にある所有機器類の記載も給水ポンプと破砕ロールしかなく、20馬力はそれに費やされていたものと想像される。実質的に機械成形煉瓦を製造したのは数年間だけであったのではないか。(c.f.桜+カナ刻印) 

明治~大正期には府下六大工場の一角を占めたが他の株式会社と比べて経営が安定せず無配当の時期も続いた。明治末年頃には日本煉瓦との合併話もあったが既のところでこの話を蹴り、経営陣を一新して狭山町に新式窯を備えた分工場を建設するなどしている。しかし乾坤一擲の賭けは駄目に出て、六大工場の中で最初に廃業した(大正9)。

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