奥田煉瓦工場(中央煉瓦製造製造所)

岐阜県不破郡青墓村矢道(現・大垣市矢道町)に明治30年に創業した工場。工場主奥田平八は大垣商業銀行取締役なども務めた実業家で、M35頃には職工180人を数えた大工場であった(『工場通覧』M35版)。明治39年に武藤嘉門が引き継いだ頃から中央煉瓦製造所を名乗るようになり(M40.5.?;『工場通覧』M42版)、以降経営者を変えながら昭和22年頃まで存続した。岐阜県下では最も長く続いた普通煉瓦工場である。

明治9年にボイルが提出した中山道線踏査報告書では垂井駅近傍に煉瓦製造に適した土があることが指摘されており、その土を用いて製造を開始したものとみられる。明治17~18年頃の関ヶ原~垂井~大垣間工事でこの土が使われたという直接の記録はないものの、同区間の初代煉瓦構造物には他と質を異にする煉瓦が使われており―――それまでのデファクトスタンダードであった2-1/4インチ厚ではなく並形厚の煉瓦が使用され始める―――、奥田工場の前駆体となる臨時工場があった可能性を考えてもよいかも知れない。

工場所在地の矢道町やその近辺で”○+かな/カナ”の識別印細い書体の英字による形状指示印を打刻した異形煉瓦転石を検出。湖東線沿線ではこれらを刻した異形煉瓦を頻繁に見かけ―――形状指示印のみのもの、識別印と形状指示印を押したものなど複数パターンあり。また構造物近傍だけでなく沿線集落の中でも転石が多い―――、この区間の複線化に多数の煉瓦を供給したことが伺える。それぞれの分布は上記リンク先を参照されたい。

”○+カナ”の識別印は市古工場の初期識別印に似るが、採刻して比較すると奥田工場のほうが一回り大きいことがわかる。興味深いことにそれは京阪神で稀に見られる”○+カナ”印と同サイズで、これらも奥田煉瓦/中央煉瓦の製品である可能性が出てくる。事実新淀川の柴島干潟でも奥田煉瓦の”B”+”○ろ”が検出されている(M34建造・現行上淀川橋梁上り線橋脚の解体瓦礫とみられるもの)ので商圏内であったことは確かだろう。

ただしそうすると宇治駐屯地補給部本部建物に見られる”○+ウ”と年代不整合を起こす。この建物は明治28年に宇治火薬製造所として開業した時からある建物と見られるが、奥田煉瓦の創業は早く見積もってもM30である。この辺り要確認。

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