加太トンネル建設用煉瓦工場

関西鉄道が本線最高所のトンネル・加太トンネルを建設するにあたり、工事現場に程近い字一ツ家に専用の煉瓦工場を設け、そこで使用煉瓦を製造した。この工場では扇形に「四番」「三〇」等の文字を内包する刻印を使用している。工場所在地近傍や工事現場付近に残る煙突、大和街道架道橋等にこの刻印が検出される。また大字小林の大和街道に面した民家では、工場跡地に残されていた不良煉瓦を譲り受けて築いたという壁があり、ここにも扇型刻印を多数確認することができる。

加太トンネル自体は接近困難なため確認ができていない。トンネルより東の構造物では扇型刻印よりも大型のカナ刻印が目立つ。これは三重県桑名市・鈴鹿市にあった勢陽組かその後継工場である水谷工場の供給した煉瓦と推測される。加太トンネル建設に専用工場が採用されたのは現場が僻地で煉瓦搬入に困難を来したからだが、そこが他の構造物の煉瓦まで広く手がけたわけではないのだろう。

関西本線区間ではこの他にも大河原~笠置間の木津川橋梁建設に奈良坂にあった平岡窯が煉瓦を供給した記録がある(那波光雄「関西鉄道木津川橋梁」『鉄道協会誌』第1巻)。平岡窯は後に奈良鹿峰社の第二工場として稼働。工場跡近傍では今でも煉瓦屑を見ることができるが刻印は検出されなかった。また加太トンネル等の工事にさきがけて建設された草津線区間では大阪旭商社の漢数字刻印煉瓦が見られ、また国分・新道橋梁には地元葛木の杉本煉瓦の製品が使用されている。要所要所に工場を設けて煉瓦を供給しつつ、不足分を遠方の製品で埋め合わせた姿が浮かび上がってくる。

前田裕子『関西鉄道の草津-四日市間幹線建設を巡る考察』(国民経済雑誌第207巻第4号、平成25年〔2013〕)に工場に関する記述あり。一ツ家の工場は「関西煉瓦製造所」と呼ばれていたという(「関西鉄道の煉瓦製造所」の意味なのか、それともそういう名前の会社だったかは不明とされているが、舞子に工場を置いた関西煉瓦会社が出張所として設けた可能性が考えられる。また木津川市上狛には明治30年代に関西煉瓦合資会社が発足している。関西鉄道の営業報告書でも煉瓦はすべて「購入」したことになっている)。

加太トンネル西口のそばに煉瓦屑の散る平場があり、ここが加太トンネル西口の作業場だった場所とみられる。煉瓦屑には膳所監獄の小判形印ばかりが検出され、加太トンネル工場の扇印はない。また平場脇の地道にも3インチ厚の肉厚異形煉瓦(しかも大阪から三重愛知まで各地の!)が路肩石のごとくに埋もれている。トンネル工の大半には加太トンネル工場の製品が使われ、工事の最終段階に不足分を各地からかき集めてきたのだろう。肉厚異形煉瓦もアーチの裏込めに転用した余りとみられる(西口坑口の天辺には3インチ厚の無刻印矩形煉瓦が使用されている。これも杉本煉瓦工場から取り寄せたものか)。路線最高所のこの山の中に中京関西の様々な煉瓦が集められ、それによって加太トンネルが完成したことは記憶されてよい。


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