藤田組工場

明治11年3月に阪府授産所第二勧業場を払い下げたもので、難波新地六番町に所在(明治大正大阪市史 第4巻)。佐藤英達著『藤田組の発展その虚実』によれば藤田組皮革工場は1879年(明治12年)難波遊連橋に移転、1881年(明治14年)に難波桜橋に再移転した。難波遊連橋は高津入堀川に架かっていた橋で、難波新地六番町はその東岸にあった。

朝日新聞記事によれば明治12年頃に盛んに拡張・製造を行なったようである。また13年5月に煉瓦製造所と皮革工場を煉瓦壁で囲う予定という記事がある。その後明治15年10月19日に西成郡難波村の煉瓦製造所を同村有志が買受け拡張する計画を伝えている。これが藤田組工場かどうかは確証がなく(朝日新聞 M13.2.15 2面に小林周三が難波村に煉瓦工場を建設するという計画が報じられている)、また買収が行なわれたかも定かでない。なお難波村にはM14.3.に稲葉仁兵衛工場=稲葉組工場が設立され、明治20年頃まで存続している。

難波新地六番町は後に阪堺鉄道難波駅が建設された(M18)。阪堺鉄道は藤田伝三郎が発起人となって設立された鉄道会社。所有敷地を駅立地に宛てたと想像すればその頃まで存続していても不思議ではない。またM16.7に開業した大阪紡績にも藤田伝三郎は関わっている。第一工場は煉瓦造4階建てであった。

なお藤田組が正式に設立されたのは明治14年のことなので払い下げ直後の工場を藤田組工場と呼ぶのは差し支えあるかも知れない。

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