京都鉄道印(京都鉄道直営工場製?)

亀岡市の旧市街や旧山陰街道沿いの街区で見られる特徴的な煉瓦刻印。京都鉄道の社章そのものであり、事実京都鉄道が建設した地蔵第二トンネルの東口にも同じ刻印煉瓦が使用されている。漢数字の添字を有する。

保津峡区間の工事を請け負った鹿島組(現・鹿島建設)のサイトに亀岡に京都鉄道会社の直営煉瓦工場が作られたとあり、この工場の製品である可能性が高いが、製造に至るまでには紆余曲折があったようである。

まず、亀岡市篠町(旧南桑田郡篠村)馬堀には明治28年8月創業の京都煉瓦製造株式会社の工場があった。明治29年にはほぼ同じ場所に南桑煉瓦製造合資会社が興る。後者が京都鉄道工事に煉瓦を供給する目的で設立されたものであったが「経費の見込み違いや京都鉄道会社との煉瓦請負契約が解約となったことから」明治31年5月に解散したと『新修亀岡市史』第3巻p.248にある。「鉄道会社からの煉瓦盤形の改良要求に対し煉瓦会社が値上げを要求したが話がまとまらなかった」とも。南桑煉瓦は短期間ながら製造も行なったらしく、『篠村史』p.372に掲げられた損益対照表には煉瓦売却金5,170円が計上されている。なお南桑煉瓦と京都鉄道の間には煉瓦300万個の売買契約が交わされていたようである(M30.12.5に契約解除、31年5月2日解散。嵯峨~亀岡間は明治30年4月着工、32年8月竣工)。

市史にはそれ以上のことが書かれていないが、現に京都鉄道社章印が存在するし、『日本鉄道請負業史 明治編 中』に「煉化石セメント等は一切会社の供給である」との記述がある(p.231)。以上のことから、京都煉瓦製造の工場→南桑煉瓦として独立→解散後に京都鉄道が買収したか、京都煉瓦製造とは別に南桑煉瓦が興る→南桑煉瓦解散→京都煉瓦製造の工場を買収、という経緯があったものと推測される。

京都煉瓦製造の設立と初期の展開に関しては『大日本窯業協会雑誌』に複数の報がある。いずれも京都日ノ出新聞からの転載である。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/3/36/3_36_334/_pdf

第3巻第36号(明治28年)窯業彙報 創業総会の報

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/40/4_40_107/_pdf/-char/ja

第4巻第40号(明治28年)窯業彙報 臨時株主総会を開催、資本金増額など。社長木村重忠、取締役吉居眞忠、山中仙太郞等の三氏は堺・明石の同業者視察へ出発

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/46/4_46_348/_pdf/-char/ja

第4巻第46号(明治29年)窯業彙報 馬堀分工場完成と愛宕郡大宮村船岡山の麓、大字内畑に第二工場建設の計画を報じる。船岡山は建勲神社のある辺り。

なお、京都鉄道の構造物や亀岡市域ではカナ一文字の刻印も見られ(例:「」「」「」)、書体や大きさは堺の旭商社のものと推定しているカナ刻印に類似しているように思われる。例えば深山第一砲台の通路天井の「」など。

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