三津浜煉瓦(三本線(大))

兵庫県下で検出されている三本線刻印には径2~3cmほどのものと6cm前後の大型のものとがあり、後者は三本線が離れ、平中央に打刻されていることが多い。愛媛県で検出されている三本線刻印には後者のパターンが多いようで、これが三津浜煉瓦の刻印とされている。

三津浜煉瓦の経歴については吉村久美子、越智公行「三津浜煉瓦の変遷」〔愛媛県総合科学博物館研究報告 第27号、2022〕に詳細にまとめられている。同研究報告では明治18年2月に鈴木安職が創業した伊予煉化石製造所を母体とし、三津浜煉化製造所を経て大正2年に株式会社化されたとする。付言すれば『日本全国諸会社役員録』M32版から34年版にかけては伊予煉瓦合資会社(明治31年4月創業、業務担当社員御手洗忠庸、岸重崔、高木喜太郎)の名があり、工場通覧M35版から同じ創業年月で三津浜煉瓦製造所の記載となる(伊予煉瓦の名はない)ことから、伊予煉化石製造所(個人工場)→M31伊予煉瓦合資会社→M35頃三津浜煉瓦製造所(個人工場)→T2三津浜煉瓦(株)と変遷したようである。三本線マークは三津浜煉瓦(株)時代の社章であった(これを打刻したものもT2以降?)。

三本線刻印煉瓦にはその他にも機械成形煉瓦に押された小型の印もある(大阪府東淀川区十三)。播州煉瓦合同の印と同じサイズだが、工場周辺ではこのパターンのものは未検出。

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