S5.9.30/明治工業史 化学工業編(煉瓦製造の黎明期)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1839414/296

ほか.関西に関係あるもののみ抽出.太字は筆者のメモ用強調.

(P.507)

第一 明治初期時代

 我が邦に於て耐火煉瓦製造工業の著しき発達を来たしたるは明治二十年前後なり.明治初年東京及び大阪に於て政府自ら本業を開始したる時より明治二十年前後を以て,之を斯業創始時代と見做すべきなり.明治の初年政府事業として耐火煉瓦の製造をなしたるは,東京なる赤羽工作分局,深川工作分局及び大阪なる造幣局の三社とす.

 造幣局は明治元年八月大阪市外淀川畔に起工し,一時事業を中止し,更に二年五月工事を続行し,四年二月工を了へたり.二年五月英人技師ウォートルス来着するや,江川某をして後年の大阪砲兵工廠所在地たる鴫野に登窯を築造し,自己監督の下に建築煉瓦及び耐火煉瓦を焼成せしめたり.建築煉瓦は数百万個を焼成せしも,耐火煉瓦は成績良好ならざりしを以て廃絶したり.然れども之れ維新後に於て新進の学理を応用し,耐火煉瓦を製造したる嚆矢なりとす.越えて五年には四分六法と称し,英国製耐火煉瓦使用後の破層を適宜の粗度に砕きて得たる不粘質物の六分に,所謂焼粉或はシャモットと称する摂津西宮産の粘土四分とを配合し,之を成形したるものを骸炭窯上にて乾燥し,更に此窯内にて焼成せしことあり.西宮粘土を耐火材料としての使用は此の時に始まれり.明治三年起工に係る大阪砲兵工廠は,当時普通建築用煉瓦は造幣局製造のものを使用したりと雖も,諸金属熔融爐及び其の他諸窯に必要なる材料は造幣局と同じく皆外国製を採用し,内国製を主に使用するに至りしは明治二十五年頃とす.然れどもこの一局一廠が夙に耐火煉瓦を本邦に輸入し,諸金属溶融爐及び骸炭窯等に使用し,又石炭によりて強度の火力を得ることを知らしめ,大阪地方の工業者に対し,其の用途を実地に示し,更に進んで耐火材料の実地研究をなし,之が製造方針を直接間接に民間に教え,我が邦に於ける斯業の解説を輔けたる事実は大なり.

(P.516)

大阪地方

 大阪に於ては造幣局及砲兵工廠に於て耐火煉瓦需用の事起るや,之に促されて最も早く斯業に従事したるは田中盛秀にして,明治九年西成郡福島に工場を開き,之を盛秀館と称せり.之を大阪に於ける個人経営に係る耐火煉瓦製造工場の嚆矢とす.爾来継続営業し来りしも,明治二十四年に至り廃業せり.盛秀に次ぎ斯業を起したるは明治十六年岡崎,高原外四名の合資を以て,造幣局砲兵工廠其他硝子製造工場に耐火煉瓦を供給する為,西成郡西野田に工場を置き,五成舎と称したるもの是れなり.耐火煉瓦製造所に於て泰西の新教育を受けたる邦人の専門技師を招聘したるは該舎其の始めにして,其の製品も優良のものを出したるに,他の事情の為,明治二十五年解散の悲運を招けり.

 明治十六七年頃より耐火煉瓦製造を企つるもの漸く続出するを見たり.明治十七年硝子用坩堝,冶金用耐火煉瓦,亜爾加里用耐火煉瓦等製造の目的を以て,津枝三雄工場を北安治川に設け,製々舎と称せり.而して原料には備前産蝋石の使用を開始し,殊に硝子用坩堝の製造に心を傾けしかば,従来専ら使用せられし信楽焼坩堝は,為に大なる影響を蒙れり.十八年九月には渡邊貞助及び西村徳兵衛の両人資金を合せ,貞徳舎と称する工場を北区梅ヶ枝に開き,主として硝子製造用の目的に供する耐火煉瓦並に坩堝の製造に従へり.然るに業務拡まらず収支償わざるに至り,二十二年工場管理者大野半助に其業務全体を譲渡せり.二十一年西区湊町に広瀬倉平の工場起り,硝子用坩堝及び耐火煉瓦の製造をなし,翌二十二年七月には中臣吉郎兵衛(n注:丸三耐火煉瓦)亦た工場を南区難波に設け,技術に関しては斯業研究の為,嘗て独逸に遊学したる杉山昌大の指導を受けたり.後,二十五年十二月に至り,横山善三の工場亦た難波に起れり.創業当時は自己の本業たる銅及び雑鉱の精錬に使用する目的を以て耐火煉瓦を製造したるが,後には広く之を販売するに至れり.

(P.531)

 大阪に於ける個人経営の耐火煉瓦工場は広瀬倉平,横山善三両工場の外,北村市松筧繁之助藤本喜三郎(n注:製々舎)の三工場あり,二十二年貞徳舎の工場を譲受けたる大野半助は,二十九年また継続営業者たる北村市松に譲りて廃業し,北村は尚お貞徳舎なる商号を用い,工場を東成郡鯰江村新喜多に置き,耐火煉瓦及硝子用坩堝の製造を兼業す.三十年七月中臣吉郎兵衛の死去と同時に彼が難波の工場は,筧繁之助之を継承して後日に及べり.丸三耐火煉瓦製造所は創立者吉郎兵衛の命名したる所にして,後の営業者亦,之を襲用す.次で三十四年津江三雄の逝くあり.其の子葆父の業を次ぎしが,三十九年十二月之を工場の管理者藤本喜三郎に譲りて廃業せり.喜三郎は翌四十年工場を南区難波に移し製々舎なる商号を襲用し,硝子用坩堝の製造を廃し,専ら耐火煉瓦の製造に従い後に至れり.此の外北区同心町に工場を有せる正盛館中辻萬造も硝子用坩堝の製造を主業とし,傍ら耐火煉瓦の製造をなせり.

 斯の如く,大阪の耐火煉瓦製造業は明治三十年を過ぐるも著しき発達を見ざりしが,二(n注:三)十六年四月に至り品川白煉瓦会社の支工場南区木津三島町に起れり.品川白煉瓦会社が工場を設置するに至りたるは,当時新に獲得したる伊賀島ヶ原の広大なる原料を利用して,大阪の工業界及び筑前八幡なる製鉄所に製品を供給し,進んでは清韓其の他東洋市場に新販路を開拓せんとする業務の根拠地たらしめるものなり.この工場は三十七年八月に至り,諸般の設備全く成りしかば,之を大阪支社と名づけ,直ちに各種耐火物の製造に着手せり.而して京都三重兵庫岡山の一府三県に亘り,新に原料産地を取得し,之を大阪支社の採掘地に供し,その設備に就てはメンドハイム最新倒焔式瓦斯連続窯即ち十四室より成り,一室並型七千個を焼成し得るものを築造し,原料の粉砕,練成及び成形には総て機械の力を応用するに至り,関西の斯業界は為に一新生面を開くに至れり.


(P.544)

第六節 建築煉瓦

 建築煉瓦の名称は,時に妥当を欠く場合あり.普通煉瓦の呼称も亦,往々にして誤解を招き易き場合なきにあらず.茲には建築煉瓦を以て耐火煉瓦に対称するものとし,又普通煉瓦は装飾煉瓦に対称すべきものとして,共に之を建築煉瓦中に配属せり.

第一 普通煉瓦

 煉瓦の語は,早くより煉化石と称し或は塼字を用うる場合もあり,明治の中年頃まで,博覧会等に於ては専ら煉化石の称語を用いたるも,民間に於ては夙に煉瓦の略名を慣用し来り,今日にしては全く普通の名称となりたり.而して一般に所謂普通煉瓦とは,重に耐火煉瓦と区別せる名称にして,或は白煉瓦に対して赤煉瓦と通称することあり.

 此の煉瓦製造の濫觴は,安政四年幕府が長崎飽浦に製鉄所を起し(後の三菱造船所)蘭人ハルデスの監督により,長崎の瓦屋に命じて右工場用の煉瓦を焼かしめたるに起る.夫より維新後に及び,明治二年には大阪造幣局の設置あり.播州明石の瓦屋をして,同工場の煉瓦を焼かしめたるも,其の結果不良に終りしより,更めて大阪の瓦屋に命じ,英人オードロスの監督の下に,焼製せしめたり.又其の翌三年には,大阪造兵司分工場の大砲鋳造所を椎口に設くるに当り,同所の中島成道は,其の工場用の煉瓦を堺にて焼製せしめたるが,此の際同地の瓦屋原口忠太郎の担当にて,極めて堅牢のものを得たりき.

(P.548)

 尚お関西地方の創業に関しての諸井の所説を参照するに,其創業は関東よりも稍早きが如く,明治二年春阪神間の鉄道敷設に際し煉瓦の需用起りて,始め堺市住吉通りなる旧函館物産会所及び姫路物産会所跡に,工部省鉄道寮にてダルマ窯を築き,外国傭技師の下に地方労働者を使役して其製造に従事せしが,右工事の終るに臨みて之を鹿児島人原口某に払下げ夫れより明治七八年頃に及び,原口製造所の外にも二三資本家の合同によりて稲葉組と称したる煉瓦工場の設立を見,爾来両三年毎に一二個所づつ漸次に小煉瓦工場の数を増加したるも一ヶ年の製造高は合計二三百万個を出でざりし,而して琵琶湖疏水工事用のために山城国山科に登り窯式煉瓦製造所を設け明治十九年七月製作に着手し翌二十年の一箇年間に六百万個を作り出したるは当時に於ての記録なり.又日清戦役後即ち明治二十八年より三十年までの間に於いて同業の勃興最も著しく,同年末の大阪府下には会社組織のもの三十二ヶ所,個人経営のもの十九ヶ所ありて,其の他尚お素地成形のみに従事するもの亦,数ヶ所ありしと云う.然るに同年十月より翌三十一年に亘り,経済界の逼迫を極むると共に,煉瓦業も亦大恐慌を来して,同三十三年頃には前記の三分の一の工場を存せるのみ.而して大阪方面に於て最も早く輪窯式を採用せしは,明治二十一年頃の大阪窯業会社にして(同社は明治十五年創立,同三十二年堺に移る.所謂「窯業」の称語は同社を率先とするが如し)其の他にありては広島に至る関西地方を通じて,同三十三年頃輪窯を有せるもの八ヶ所にして十二座を見たるのみにして,他は皆手抜製を用い居たり.

http://bdb.kyudou.org/?p=8819

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

WP Twitter Auto Publish Powered By : XYZScripts.com