西尾士族工場(天工会社、精成社、西尾士族生産所)

東洋組は明治17年末頃から資金繰りに行き詰まり、各分局への配当金も滞りがちになったうえ、県や内務省からの借入金の返済の目処が立たなくなったことから、東洋組傘下の瓦製造子会社・煉瓦製造子会社が合併する形で天工会社を立ち上げ独立した(明治18年2月)。西尾分局も刈谷分局もともに天工会社の各分局として操業しつつ継続の道を探ったが、西尾分局は東洋組色を払拭するため旧西尾藩士の完全出資による「精成社」を設立し、工場敷地や諸機械一式を引き継いだうえ、それを東京深川亀住町在の笠原光雄に売却して解散した。笠原は旧西尾藩主松平家の家令なので実際の買主は旧藩主相続人松平乗承だったと考えられている。これを西尾士族に再び貸与する形で明治19年3月に設立されたのが西尾士族生産所である。西尾士族生産所はその後数年間堅調に操業したが明治23年頃には生産を止めたとされている(『西尾市史』。『愛知県統計書』にはM19-21に掲載。明治21年刊川崎源太郎著『参陽商工便覧』には工場の活況を描いた図が掲げられている)。

天工会社以降の工場は実質的に旧西尾士族による経営で、天工会社時代に「天工会社西尾分局」印を用いた以外は会社を代表する刻印を用いず、職工識別印を頻繁に変更しながら製造を続けたようである。ここでは天工会社以降の工場を総称して『西尾士族工場』と呼ぶことにする。また個々の識別印の系統は各カテゴリーを参照されたい。

〝□+漢数字〟

最も初期の識別印とみられるもの。東洋組分局時代の刻印や天工会社印とともに打刻されていることがある?

〝□+漢字〟

揖斐川橋梁井筒に使用された煉瓦を中心に検出される識別印。敦賀港駅ランプ小屋に使用されているものも同系統で、西尾士族工場製と推定される。

〝□+カナ〟

〝□+漢字〟識別印と同じサイズでカナを内包するパターン。西尾市街でも比較的頻繁に見られる。

〝漢数字〟

浜名橋梁井筒などに使用されている9ft井筒用異形煉瓦に形状指示印とともに打刻されているもの。この識別印のみを打刻した肉厚普通煉瓦もあり、晩期にはやや細い書体の漢数字印も使用した形跡がある。

西尾士族工場は東洋組からの離脱・新設の時期に「鉄道局御用の大形煉瓦」を受注し生産に入っていたことが『西尾市史』第4巻所収の生産所関係者の書面にある。この頃東海道線の建設が始まっており、他工場もその売り込みを画策していたが、品質その他の問題があり西尾士族生産所が独占状態にあったとも。風水害で乾燥中の煉瓦を毀損するといった障害もあったが、西尾士族生産所の成立頃から納入を始め、1カ年のうちに「A、B、C厚型、並形」、合わせて253万1187個を焼いている(売上個数は228万5352個)。揖斐川橋梁などで検出されている〝エー〟〝ビー〟〝シー〟識別印に”□+漢字〟印を添えたものはこの最初期の納入品と考えられる。

『西尾市史』には明治20年10月11月棚揚げ表と称する一覧も掲げられており興味深い。

下等交り煉化石

138,831枚

1銭につき7枚

上等イー形

37,882

1000枚につき8.15円

同 デー形

5,381

1000枚につき7.00円

同 ABC形

52,607

1000枚につき6.00円

同 厚形

64,672

1000枚につき8.15円

同 並形

1,889

1000枚につき4.00円

同 イロハ印形

1,395

1000枚につき6.00円

下等交り形

33,070

1銭につき8枚

エー形白地

7,168

1000枚につき1.10円

デー形白地

6,947

1000枚につき1.17円

ここに掲げられているA~C形、および〝デー〟=D形・〝イー〟=E形は鉄道橋脚の円形井筒に用いる扇形や撥形の異形煉瓦とみられる。また〝イロハ印形〟は(ABC形に添えられた〝□+漢字〟印と対になる)〝□+カナ〟識別印の押された製品と推定したい。

揖斐川橋梁の井筒の煉瓦には縦横2分ほどの小さな漢字を四角で囲った添印が添えられていることが多く、具体的には〝圡(点つき土)〟〝平〟〝青〟〝萩〟を検出している。また一連の鉄道工事の余剰分を寄せ集めて建設されたとみられる石ヶ瀬川橋梁(M24.6.改築)の残骸から形状指示印〝シー〟+〝□斗〟を打刻した扇形異形煉瓦を検出した。『西尾市史』所収書面には鉄道局御用品の製造能力のある者が17、8人いたことが記されてあり、彼等のうちで使われた識別印であり、それぞれの名前から取った一文字であったのではないだろうか(〝□+漢字〟カテゴリ参照)。

西尾士族授産所は明治23年夏に跡地と残余煉瓦を買い取り耕作地にしたという記録がある一方(『西尾市史 第6巻』年表)、明治25年に廃絶したという情報もあって結末が定かでない。愛知県統計書では明治21年度のデータを最後に姿を消している。他方、木曽川橋梁の橋脚近傍で西尾士族工場識別印の入った肉厚普通煉瓦を複数種検出している。この煉瓦は井筒間に架け渡された壁体に用いられていたものとみられるが、木曽川橋梁井筒は濃尾地震後に全改築されており、明治24年~25年頃に築かれた構造物からの出胎品である可能性が高い。その頃まで製造を続けていたのか、それとも鉄道省に余剰煉瓦が蓄えられていたのか、あるいはM23に買い取られた余剰煉瓦が使われたのか、この辺り検討の余地がある。

初期の井筒用煉瓦にみられる〝エー〟〝ビー〟〝シー〟の形状指示は、勢陽組の製品や斜井桁+三線刻印刈谷士族工場の製品にも見られるが、勢陽組の指示刻印は一文字が3cm四方もあるような大型の文字で、一辺1.5cmほどの文字を使った西尾士族工場の指示刻印とは隔たりがある。また勢陽組工場所在地では□囲みの識別印は見られなかった。斜井桁+三線刻印や刈谷士族工場の指示表示はより小さいものである。また西尾士族工場の識別印は長音記号がやや左に寄り気味な傾向があり、木曽川橋梁残存井筒や穂積~大垣間五六川橋梁井筒に検出される無添印の”ビー”なども西尾士族工場製とみられる。いずれの表示も長音記号を長く伸ばす傾向があり時代を感じさせる。

西尾士族工場製と見られる煉瓦は、東は浜名橋梁の旧橋脚基礎(9ft円形井筒)、西は長浜駅の南方にある湊堀橋梁の〝デー〟、湖東線仁保川橋梁橋脚の解体瓦礫とみられる煉瓦の漢数字刻印などがある。湖東線で最後に竣工した屋ノ棟川隧道の跡地近傍でも〝廿七〟の漢数字印を検出した。湖東線沿線では西尾生産所以外にも市古工場勢陽組の製品も見つかっており、東海道線西部工区用に購った煉瓦が回送され、できるだけ余さず使い切ろうとした姿が窺えて興味深い。

なお西尾士族工場製品の器胎はは概して粗雑で、内部の黒化が進み、その黒化と白斑、赤く発色した胎土とが複雑に入り混じってchaoticな色合いになっていることが多い。天竜川橋梁〝ビー〟+〝□青〟などはその典型例である。このような焼き色は市古工場の製品や三引き隅立て井筒印の煉瓦にも見られ、三河地方西尾以南の土の特色によるものかも知れない。膳所駅前ロータリーの工事に際して出土した三インチ形無刻印肉厚煉瓦第一浜名橋梁近傍転石などもこの系統に属する。

(由良要塞成山第一・第二砲台に使用されていた漢数字(小)も西尾士族工場製か? 詳細は”漢数字”識別印カテゴリ参照)

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