日本煉瓦

泉南郡舳松町(現・堺市大仙西町1丁目付近)に創業。創業当時のようすは『堺市史類纂』参照。登窯で煉瓦を製造しつつホフマン窯の建造も進め、M30中にはホフマン窯2基体制での焼成を開始した。明治40年頃には鳳村に素地製造を行なう分工場を開設し、翌41年には輪環窯3基で年間2000万個を焼いたとする記録もある(『日本工業要鑑』明治42年第4版)。明治末から大正にかけては府下六大工場のなかでも中堅クラスの上くらいに位置づけされていたようだ。

社章は中央に花柱らしい丸印を有する花形印で、『大日本商工録 : 公認. 第2輯』に社章掲載がある。これと同じ刻印を同舳松村の本工場跡に面する煉瓦壁に見ることができる(現・市営大仙西町団地)が、それよりも花弁内に漢数字英数字の添印を内包するものが多数見られ(由良要塞虎島堡塁の建物基礎では漢数字添印と英数字添印が共使いされている)、あるいは何も内包しない不鮮明な印も多い。古い構造物に見られる印ほど数字を内包していることが多いようである。ちなみに日本煉瓦製造の社章の鋭鈍を反転させると日本煉瓦の社章になる。

日本煉瓦株式会社
泉北郡舳松村
設立 明治29年9月
資本金 300000円
一株 50円
社長 田端三郎平 泉北郡湊村
取締役 野田吉兵衛 東区高麗橋五
同 村上嘉兵衛 同上
同 日置善作 南河内郡日置荘村
同 石田庄兵衛 東区南本二
監査役 浮田桂造 南区安堂寺四
同 小西半兵衛 東区伏見四
同 岡崎栄次郎 東区博労二
支配人 安宅重三

(『日本全国諸会社役員録』 明治30年)

大正2年頃には資本金30万円(払込10万5千円)、積立金3万2390円、M45年上半期の配当一割、輪窯三基(倉橋藤治郎「大阪付近の煉瓦業」『大日本窯業協会雑誌』No.246 T2.2.)。T6頃から素地製造機器が稼働を始めたようだが、明らかに機械成形という肌をした日本煉瓦刻印煉瓦は未見である。

鉄道や工場建設のような大規模需要だけでなく市井一般の需要にもよく応えたようで、その刻印煉瓦は非常に広範囲に・頻繁に検出される。この分布の広さと厚さは昭和22年という比較的晩期まで製造を続けていたことも関係しているのだろう。ただし製品の品質はお世辞にも良いとは言えず、黄味がかった焼きの甘い煉瓦、表面がぼろぼろに風化した煉瓦が多いような印象がある。

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