大阪毎日新聞 M34.11.10/堺周報 工業門 (堺市煉瓦の盛衰)

出典:堺史料類纉。手成形で日に400個が限度という記述はここ。

堺市煉瓦の盛衰
我国における煉瓦は目下各地到る処に於いて製造をなし居れども其原料は堺市及び其付近より算出のものに優るものなく故に我国に於いて製造したるも亦同市を以て嚆矢とす而して同市における製造の始は明治元年三月にして同市接続の舳松村丹治利右衛門氏なるが同氏は其当時大阪造幣局及び神阪間鉄道工事の注文を受けて製造したるものにて尓来製造に従事し次で明治四年に至り生野銀山の鉱業用として同市住吉橋通り二丁目に官業として煉瓦製造所を設け同所において盛んに煉瓦製造をなしたるも丹治氏は屈する色なく共に其製造に従事し居りしも当時は其需用者極めて少く私人の需用としては殆んど皆無の姿なりき斯くて官業たる煉瓦製造も其用を満したるを以て明治七年に至り同製造所を同市の原口忠太郎氏に払下げたるを以て尓来丹治原口二氏にも各別に製造をなし居たれども尚お需用者極めて少く僅かに官衙の建築用として供給する位に止まりしが明治十五六年頃より稍々私人の需用者あるに至り続いて十七八年に至り鉄道敷設工事及び紡績会社其他諸会社の勃興するものありて官私共に大に需用を増加したるを以て以来煉瓦製造者も次第に増加し二十一年には九ヶ所の製造所を見るに至れり而して各製造等は個人の業とするもの稀にして多くは会社若しくは組合組織を以て成れり而して製造の窯は最初は達磨窯と唱うるものを使用し来りしが其結果甚だ面白からざるを以て明治四年に至り土樋焼法に基きて窯の改良を加えたるに稍々好結果を得暫く之によって製造したるも其後更に改良を加えて上り窯及び丸窯を使用するに至り昨今においては一二会社を除くの外総て丸窯を使用するに至れり斯くて二十一年には煉瓦の盛況を極めたるを以て製造業者も増加したるが二十二年末より稍々衰微の傾きあり尓後次第に衰えて二十四年には尤も其極度に達し製造所も六ヶ所に減じ就業せるもの僅かに一二ヶ所にして外は休業するに至りしが二十五年末より稍々回復の兆ありて各製造所も次第に就業するに至り二十七年に至り日清戦争の起るや新に会社を組織するもの多く隨って煉瓦の需用者大いに増加して再び製造所は八ヶ所に増加し堺煉瓦の全盛を極めたるは正しく同年間にありしが今各年における生産高を挙ぐれば左の如し

年次

生産高

価格

二十四年以前

一五、〇〇〇、〇〇〇

八七一、〇〇〇円

二十五年

九、三八六、二六七

四五、八六四

二十六年

一〇、八二七、三六八

六五、三六三

二十七年

一五、九九二五、三二七

一三五、七八〇

二十八年

一四、九八三、四七一

八九、六七六

二十九年

一一、六五一、八六三

六二、三二七

三十年

三二、九五四、八二九

三七〇、八五二

三十一年

九六八二、〇〇〇

七八、二八〇

三十二年

四四七三、〇〇〇

三六、五一四

三十三年

二一、二七三、〇〇〇

一八一、五一八

以上の如くなるが昨今に至り稍々回復の傾向あるよし而して又目下における同地の煉瓦会社は旭煉瓦、山本煉瓦、堺煉瓦、日本窯業(注:大阪窯業の誤りか)、日本煉瓦、丹治煉瓦の六会社にして何れも就業し居れるが職工は男女共使用し一二の会社は囚人を使用せるものあれども其他は総て普通の職工を使用し居れり而して現今就業の諸会社中尤も新式の器機によりて製造をなし居るものは大阪窯業会社なるが窯は丸窯に稍々改良を加えて専売権を得煉瓦は蒸気器機にて製作するをもって職工の少き割合には製造高非常に多きよしなるが元来我国に於いて器機を以て煉瓦を製造するは去る二十二年初めて中仙道深谷において日本煉瓦会社が据附けたるが始めにて次は東京府下南葛飾郡の釜町煉瓦会社、千住の東京煉瓦会社と大阪窯業の四ヶ所にて外は何れも手抜煉瓦なるが大阪窯業会社の器機を据え附けて製作に従事したるは一昨年なりき而して今手抜き煉瓦と器械煉瓦との製造高を聞くに手抜は職工一人に付一日約四百個位に止まれるも器械製は一分間七十二個を製造するを得べしと又価格においては普通煉瓦に比し一割方高価なれど品質頗る優れるよしにて目下海軍省より五百万個の注文を受け製作しつつなりと云う (完結)

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