市古工場

東海道線木曽川橋梁の残存井筒に検出。12ft円形井筒の異形煉瓦”C”に相当する位置に使われていたもので、類似刻印が愛岐トンネル群でも見つかっている

「市古検印」と明示されているのは興味深い。煉瓦刻印を何のために押すかということは(『日本煉瓦史の研究』大野煉瓦の例以外)推測や曖昧な理解で済まされてきた。少なくともこの印は品質保証を意図して打刻したものだったとわかる。

東海道線草津駅下の塚町暗渠内で採取した転石には、中央に「市古製」、右に「三河国碧海」、左に「郡北大浜村」と刻む(これと同じものが愛岐トンネルで検出されている)。該煉瓦には小口に〝○+F〟の印もあり、東海道線の煉瓦構造物で見られる〝○+英字〟の刻印が同工場の識別印であると確定した。〝○+英字〟印の煉瓦は東海道線・直江津線・湖東線の各所で検出されており、その分布の広さはまこと驚くべきものがある。

市古工場は統計書等には出て来ない工場だが、『碧南市史』第2巻p.622に若干の記述がある。曰く久沓の市古某が煉瓦製造用の窯を築いて製造を始めたもので、しかし需要が乏しく間もなく廃業したという。

市古工場では〝○+英字〟の他にも〝○+カナ〟〝□+カナ〟(長体四角+カナ)といった識別印を使用していたことが東海道線の煉瓦構造物から判明している。構造物の着竣工年と使用印を突き合わせていくと、最初期には〝○+カナ〟を用い、続いて〝□+カナ〟で補い、最終的には〝○+英字〟印に完全に切り替わったことがわかる。そうしてその切り替えはわずか半年ほどの間に行われたようである(詳しくは各識別印カテゴリを参照されたい)。それだけ印の摩耗が速かった、あるいは短期間のうちに従事者がイロハ文字を使い切るほど急激に増加することがあり得たということで、この事実は識別印のパターンで製造工場を絞り込もうとする試みを難しくする。識別印のパターンが頻繁に変化していたことは西尾士族工場の例からも窺えることである。

明治20年12月に竣工した半場川橋梁には小口に識別印〝○+B〟と〝市古製〟印を打刻した煉瓦が使われている。また初代木曽川橋梁の残存井筒にも〝市古検印〟印が複数個見つかっている。初代木曽川橋梁は明治24年の濃尾地震で被災し、井筒の水面下数尺を取り壊した上で積み直しされているが(『震災予防調査会報告書第一集』、明治25年1月竣工)、残存部には初期の〝□+カナ〟識別印が押された煉瓦が複数点存在しており、存置された井筒基礎部分が明治20年6月に竣工したオリジナルの井筒であることが知れる。このほか中央本線の愛岐トンネル群でも同系統の市古印が見つかっているが(明治33年開業)その頃まで市古工場が稼働していたかは疑問が残る(後述)。

なお、北大浜村は明治16年11月に大浜村から新川以北が分離して成立し、同25年8月に新川町と改名した。よって木曽川橋梁井筒に「北大浜村」の表記のある刻印が用いられているのは道理と言え、明治29~33年に建設された愛岐トンネル群で見つかっている類似刻印煉瓦の当時性に疑問符がつくわけである。中央西線の工事が始まる頃まで残余煉瓦が長く保存されていたか、合併後も刻印判を使い回していたことを想像しなければならない。湖東線の工事が進められていた頃にはすでに在庫の一掃が図られていた節があり、湖東線で検出する市古製品からしてすでに余剰在庫だったとすれば、それでも余ったものが中央西線に使われたことになってしまい、よほどの量の煉瓦在庫を鉄道当局が抱えていたことになる。そうなると濃尾地震の復旧にも使用された可能性が高くなり、木曽川橋梁の残存井筒も竣工当時のものとは言い切れなくなる。そのような不確定性が残されているため市古工場の存続期間を特定することは難しい。

新川町域では市古工場が成立するより前、M16に瓦職人が煉瓦を製造し始めたとされ、また大浜町域では明治15年に東洋組が工場を置いたという記述が『碧南市史』にある。創業者の斎藤実堯が創業前に碧海郡大浜村で試作したという『西尾市史』第4巻 p.108~の記述にも重なる話である。

因みに碧南市では市古姓が大変多く、旧新川町域(碧南市松原町)にはいまも「市古築炉」が営業を続けている。

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