若井煉瓦(英字)
明治21年9月頃成金社(成金商社)から改名。同社社長の若井源左衛門の個人工場となったもので、大阪毎日新聞M22.7.3朝刊2面記事には若井製造所として記載がある(旭会社、青山商会と若井製造所は当時同業組合に加盟していなかった。堺の煉瓦製造業組合は明治21年12月に設立され、翌1月3日の広告欄に共同販売所設置の広告がある)。
英字刻印は神戸市外国人居留地壁で見つかっている。印影構成は前身の成金商社の印によく似ており、移行直後に使用していたものとみられる。生石山第一砲台で検出されたものは在庫品か(砲台周辺の瓦礫には掻き目を伴うものはほとんど見られない)。若井煉瓦はむしろ井桁若のほうが検出例が多く、生石山砲台でも第一・第二砲台に数多く使用されている(第一:M22.5.20着工M23.7.10竣工、第二:M22.8.3→M23.8.18)。
生石山砲台の初期の砲台に使用されている煉瓦は先述の煉瓦製造業組合に所属していなかった工場のものが多い。時系列的には由良要塞に採用が叶わなかった工場が危機感を覚えて共同販売を開始した(が挽回できずに廃業していった)ようにも読める。