敦賀港駅ランプ小屋煉瓦刻印

明治14年(1881)に開業した敦賀港駅(当時は金ケ崎駅)跡地に残るランプ小屋の煉瓦に見られる刻印。小口に押された径8mmほどの小さな印で、「木」「西」「土」などの漢字一文字を四角で囲むものが多いのが特徴。


(ランプ小屋備え付けのパンフレット『ランプ小屋新聞』より引用)

敦賀線の建設に要した資材は「金ケ崎丸」という名の資材運搬船で大阪から運ばれたとされるが、その就航以前から敦賀港~疋田間の建設は始められており、その際に地元で製造された煉瓦と推定されてきた(実際この線の建設時に敦賀の天筒山=金ケ崎の官有地で煉瓦製造用の土を採取するための申請がなされている。滋賀県立公文書館蔵公文書)。しかし岐阜県初代揖斐川橋梁の橋脚付近で採取された瓦礫や愛知県初代木曽川橋梁橋脚井筒で検出される形状指示印つきの異形煉瓦に同型刻印がある。特に「」や「」)はランプ小屋刻印と完全一致する。「平」もサイズは全く同じで字形がわずかに違うのみである。揖斐川橋梁の煉瓦は愛知県三河の西尾士族工場が納入したものである可能性が高く、ランプ小屋の煉瓦も同工場製ではないかと推測される。すなわち明治19年前半期の建造ではないか。

明治18年から21年にかけて建設された直江津線では愛知三河の市古工場の製品も使われており、三河から鉄道で金ケ崎へ、金ヶ崎から船運でという回送ルートが存在したことがわかる。そのルートに乗って西尾士族工場の製品も金ヶ崎へ渡ったのだろう。

なお、中山道線として建設された関ヶ原~大垣間、岐阜~名古屋間に関わった土木業者の中に井上勝彦の率いる井上組があった。彼は井上勝鉄道頭の叔父で、金ヶ崎埠頭の工事も井上組が請け負っている。その後敦賀で材木商を営み一時土木業界から離れていたが中山道線工事で再度参入を果たしたものであった。またこの区間を請け負った吉田組はそれを配下の浅田政之に担当させている。浅田は浅田政三の縁者らしく「京阪線大津線時代煉瓦供給を請負い大に活躍した」とある(以上『日本鉄道請負業史 明治編』各所記述)。井上勝彦も後に堺煉瓦石会社社長を務めている。この辺りも妙に連綿があるように読めて興味深い。

なお神戸市長田区の川崎重工神戸工場脇のモニュメント「レンガのあゆみ」に用いられている煉瓦にも「□+斗」があるが、型取り材で印影を正確に再現すると両者は異なるものであることがわかる。ただ敦賀港ランプ小屋〝□斗〟と石ヶ瀬川転石〝□斗〟も完全一致するものではない(比較画像参照)。


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