”菱S”刻印(四国煉瓦→四国産業)
大阪府下、奈良県下で時おり見られる刻印。福岡県の高橋煉瓦が同型の刻印を使用していたというが(水野信太郎氏『日本煉瓦史』『国内煉瓦刻印集成』)、関西地方で見られる”菱S”刻印は九州地方のものより二回りほども小さく、同じ会社のものとは考えにくい(この差異は大阪歴史博物館2006年特別展『煉瓦のまち タイルのまち~近代建築と都市の風景~』図録にある記述がわかりやすい)。
高松市神在川窪(旧・下笠居村川窪)で”菱S”刻印煉瓦を検出。現地での検出は今のところこの一つだけだが、下笠居村最大の煉瓦工場・四国産業株式会社の製品である可能性を考えたい(工場所在地周辺は未調査)。
四国産業(株)は、昭和13年に生島湾べりに興った工場を経始とする。大阪中之島に本社を置いた三金工業(株)が、東生島区が購入した串の峰の土地に赤煉瓦製造に適した粘土があることを知り、川窪塩田(今日(株)アムロンテクノ高松が所在している一角)の東北方に煉瓦工場を建設。3年後に地域住民に売却され、この時に四国煉瓦株式会社と改名された。初め瓦製造を主として出発したが、太平洋戦争の勃発に伴い軍需工場からの注文が殺到し、後には呉の海軍工廠の指定工場にもなったという。戦中(昭和19年?)には豪雨災害で工場建物が倒壊する被害を受けたが復興を遂げ生産を続けた。
昭和20年8月、戦後復興に資する建築材料を供給するため、製材・粘土瓦製造・藁工品製造にも手を広げ、この時に四国産業株式会社と改称した。その後は赤煉瓦製造を主とし、建設資材・土管製造を従とした経営が行なわれたという。昭和30年代初頭には窯数5、土練機3、工場敷地6000坪、従業員数51を数え、下笠居村下最大の煉瓦製造所であった。昭和29年4月13日にはJIS認証も取得している(『JIS工場通覧』1965年版。許可された種類・等級は上焼1・2等、並焼1・2等。この時点で県下では讃岐煉瓦と四国産業だけが認証を取得していた)。
会社は一貫して地域住民により出資運営された。『下笠居村史』p.253には「農村における工業として理想郷建設を目ざして増資と施設の拡張を図」ったとある。