『大日本窯業協会雑誌』No.246 T2.2. pp.260-
No.246 T2.2. pp.260-
煉瓦業が隆盛期に入ってしばらく経った頃の大阪府下の煉瓦製造業のようすがわかる貴重な資料。府下生産額で全国の50%を占めていたとか(これは後年6割まであがる)、各工場の窯数とか、大阪窯業と堺煉瓦の合併が既のところで蹴られた話とか。
大阪付近の煉瓦業
会員 倉橋藤治郎
煉瓦製造業が目覚ましい発展を遂げたのは、云う迄もなく日露戦争以降の事であって、其原因は勿論国運の進歩に伴ない各種の事業勃興せるに基づくべく、爾来益々其需要を昂進すると共に製造力を増大せる次第であるが、元来煉瓦の用途は最も土木及建築業に多く、且大都会中にも東京お大阪を主要なる需要地とし(尤も近年は水電鉄道等のために、随分地方に突飛な需要額を示す事があるが、此等は概ね一時の現象に留まる事が多い)、又一面に於て容積及価格に比し重量頗る大なるが故に、自然其製造業も大都会の付近に集まらんとする傾あり、遂に今日の如く<傍点>二大都会にして二大需要地</傍点>たる<傍点>東京及大阪を斯業東西の根拠地</傍点>とするに至ったのである。
此両地を比較するに、東京は都市として大阪より遙に大規模で且万事進んで居るから、煉瓦の需要地としても大阪より優れて居るのであるが、此両地を中心とし其勢力範囲たるべき地方を比較すれば、之は恐らく大阪の方が大きいだろう。所で東京付近の煉瓦業者の原料として使用するローム土壌は、耐火力が余り強くなく少し火が利けば欠点を引起し易い恐れがあるに対し、大阪付近の原料たる粘土は、耐火力前者に比し余程高く少し位火が過ぎても割合に構わない。即ち東京付近は東京市を放しては煉瓦製造地として適当な土地でなく、<傍点>大阪付近は大阪市と云うものを考えの他に置いても技術上の資格がある</傍点>と云って差支えない。
今農商務省の統計表を見るに、明治三十九年に於て本邦煉瓦製造高二億六千六百万個、内東京付近六千九百万個(東京府四千三百万個埼玉県二千七百万個)大阪府八千八百万個、両地にて一億五千七百万個(約60%となり、越えて四十二年には三億八千二百万個、内東京附近七千九百万個(東京府四千二百万個埼玉県三千七百万個)大阪府一億一千三百万個、両地合計して一億九千二百万個(約五〇%)と云う数を示している。
又大阪府下煉瓦同業組合に就て聞くに、三十九年府下産額一億一千百万個、四十二年度一億七千八百万個に上ると云い、此間に大なる指数の差があるが今は参考として併せ掲げておく。兎に角上述の如く東京及大阪は本邦煉瓦業の二大中心地であって、就中大阪は最大なる生産地である事は疑いを容れる余地がないのである。
顧れば三十二年に於て僅かに四千四百万個を産するに過ぎなかった大阪付近の煉瓦業は、日露戦争後の激烈なる事業熱の勃興と共に長足の進歩をなして一億を超え、四十二年に入りて一億七千七百万個なる未曾有の数を示すに至ったが、やがて事業熱の冷却すると共に其製産額を源氏、昨(注:「今」ヌケ?)の好況に比して悲境を[口即]たざるはなかったが、是れ唯に煉瓦業に限れるに非ず世間の有らゆる事業皆同じ結果を来したので、まだ煉瓦業は縁の近いセメント業の様に無暴な膨張をせなかっただけ無難に経過した方であっただろう、況んや日進月歩の社会には欠くべからざる品であるから、四十四年には最大数を破るに至らなかったが尚前年に比べて一千五100万個を増し、引続き本年は鉄道、電気業、下水、建築等の盛なるに伴ない、著しく需要を増大し生産之に添わざる結果市価昂騰に次ぐに昂騰を以てし、甚だ順調に経営せる状態である。
斯くの如き多数の煉瓦は大阪府下の何れに産するかと云うに、殆んど泉州と云って差支えない。試に南海線難波駅を発して南走せんか、堺に停車場に近く堺煉瓦あり、稍々隔たりて大阪窯業堺工場あり、市の東郊に丹治あり、日本煉瓦あり、岸和田に至れば回がん一直線に輪窯の煙突が九本並立すると云う一寸他には見られない壮な光景が目に映ずる、其北は大阪窯業岸和田工場で、南は岸和田煉瓦、更に南方貝塚に大阪窯業貝塚工場がある。以上は日本でも錚々たるもので小さい工場は一々揚げるに堪えない、即ち<傍点>大阪付近の煉瓦業は換言すれば泉州の煉瓦業</傍点>で中々盛大なものである。蓋し泉州の地は原土良質にして豊富、交通運輸水陸共に便宜多く、京阪神等の大都市を控うるが故に、此種の企業には至極適当の位置なるは明瞭である。茲に泉州煉瓦業者の重要なるものに付其概略を記載すれば次の如し。
<傍点>日本煉瓦株式会社</傍点> 所在地 堺市東湊(分工場泉北郡鳳村) 創業 明治二十九年十月 資本金 三十万円(払込十万五千円) 積立金 三万二千三百九十円 最近配当(四十五年上半期) 一割 輪窯 三基 四十四年産額 約二千万個 社長 永井仙助 <傍点>丹治煉瓦製造所</傍点> 所在地 泉北郡舳松村 創業 明治三年五月 輪窯 三基 四十四年産額 一千八百万個 所主 丹治利右衛門 <傍点>堺煉瓦株式会社</傍点> 所在地 堺市吾妻橋通二丁目 創業 明治二十六年七月 資本金 三十万円(払込廿万円) 積立金 三百五十円 最近配当(四十五年上半期) 無 輪窯 一基(一基増築最近落成す他に鉄砲窯一基及登窯二基) 社長 和田嘉衛門 <傍点>大阪窯業株式会社</傍点> 所在地(本社) 大阪市北区中之島二丁目 創業 明治十五年一月 資本金 一百万円(払込八百六十四万円) 積立金 十九万四千八百円 最近配当(四十五年上半期) 一割二分 堺工場 堺市南附洲新田 同設備 煉瓦機四台、輪窯四基、単室角窯一基 岸和田工場 泉南郡沼野村 同設備 煉瓦機三台、輪窯四基 貝塚工場 泉南郡貝塚町 同設備 煉瓦機二台、輪窯三基 四十四年産額 約一億個 主脳役員 社長磯野良吉、専務取締役広岡恵三、支配人技術長大高庄右衛門 備考 大阪府以外に近江工場及関東工場あり。 <傍点>岸和田煉瓦株式会社</傍点> 所在地 泉南郡岸和田町 創業 明治二十年七月 資本金 三十万円(払込二十万円) 積立金 十万五千円 最近配当(四十五年上半期) 一割七分 設備 煉瓦機三台、輪窯五基、単室窯一基 主脳役員 社長寺田甚与茂、専務取締役山岡邦三郎
他に西成郡津守村に津村<ママ>煉瓦製造所等がある。此年産年額中には多少割引して見なければならぬものもあるが大略右の標準であろう。
此五製造所の中<傍点>大阪窯業は確に其覇王</傍点>である。製造個数無慮一億(関東近江工場を合してではあるが)天下全産額を四分して其一を有し、大阪を本陣として更に京都方面の為に近江工場を滋賀県山田に、又東京方面の為に関東工場を武蔵八王子に設置し、愈々日本煉瓦界の盟主たる位置を実にせんとする勢を示して居る。最近増資をなし一面貼付用化粧煉瓦の製造に着手して居る。役員も技術者も腕揃いで工場の設備も流石当社でなければと思わせる点が尠なくない。之に次ぐは岸和田煉瓦で、有名なる<傍点>寺田氏一派の健実なる経営振り</傍点>に斯界稀に見る好成績を挙げつつあり。殊に特筆すべきは其優秀なる製造機械の設備で自動切断機の如きは常に来観する者の土産話になる所である。終始<傍点>問題の絶えざるは堺煉瓦</傍点>である。一寸原料には或は不便かも知れんが運輸其他には至利至便な位置にありながら数年来欠損無配当を続け、■々大阪窯業との間に合併説を唱えられ且実際話も進行し、遂に本年始めだった彼総会の結果合併派重役の離任非合併派の就職となるや、俄然眠りより覚醒せる如き勢を以て煉瓦機を新調する、輪窯を新に一基増設する、河内の狭山に同型にして稍小規模なる輪窯一基及煉瓦機を有する分工場を新設しつつある等打って変わった活動振り、従来設備等の割合に資本の多く固定せる事他社の比にあらざりし該社が此を期として復活するか否か、事の容易ならざるものあると共に吾人は非常なる興味を以て此れを視んと欲する者である。
次に此等諸製造所を一括して技術上より眺める。
<傍点>原料</傍点>は泉州一帯行く所として産せざるはなしと雖も其品質は自ら相違あり。概言すれば堺地方(即北部)は粘力強く稍火を強く焼かねばならぬが製品の耐圧力は強い、之に対し岸和田地方(即南部)は粘力少なく焼いて色が綺麗に上る如く、一得あれば一失あるを免れない。原料採掘は農家の余業で牛車を以て搬入し来る(大阪窯業は一部汽車を利用せり)、価格一百貫に付工場着拾八銭より二十三銭位。
<傍点>煉瓦機</傍点>は各社共独逸式で一日二万位を抜くのが普通である、独り岸和田煉瓦は一日五万乃至六万を抜く米国製を採用して異彩を放って居る。
<傍点>乾燥</傍点>は大阪窯業が乾燥炉を有せる外は概して天日乾燥によっておる。
<傍点>焼成</傍点>は皆輪窯により其形式は皆大同小異のホフマン式であるが、今回藤江京都陶磁器試験場長の設計に係る堺煉瓦の新輪窯は遠煙突の上引式(下引も出来る)で稍趣を異にせるが、焼成開始の結果は甚良好なる成蹟を示し斯界の注目を引いて居る。窯室の数は十六室より丗二室に至り、普通十八室位を最多しとする、一体に大阪窯業は窯室が多い。一室窯詰数は一万を最小二万を最大とし普通は一万五千位である。焼成火度はsk-〇七-sk〇五位、一般に南部は少し火が弱い様だ。送熱装置を具備せるは大阪窯業の輪窯のみである。大抵一日に一室二分より一室七分位平均一室五分を焼き進み、十六乃至十八室のものでは凡そ一ヶ月に三回焼成する事になる。次に一日約二万個を抜くに就て<傍点>仕事の分担</傍点>の一例を挙ぐれば
仕事 通称 人員 賃金 原料運搬 鍋トロ 四 一日各 0.60(円) 第一ロール係 二 同 0.50 切断機切断係(一人は切断一人は切断せるをトロに移す時々交代) 二 一日各 0.65 同助手(切断機の針金拭き) 一(小供) 0.20 荒地運搬 荒地トロ 五 一日各 0.40 荒地棚揚(乾燥室に於る) 二 同 0.50 荒地叩き 叩き 女数名 一千個に付 0.30 白地運搬(窯へ) 白地トロ 五 一日各 0.40 同(トロより窯の中へ) 荷ない 四 同 0.65 窯詰 窯詰 二 一千個に付 0.07 焼成 窯焚き 大人二/小人一 月給各20.00/10.00 窯出(二人の事もあり常に選別一人に付窯出二人の割) 四 一千個に付 0.07 選別 二 同 0.06 煉瓦結束 括り 女数人 一千個に付 0.07 製品運搬 赤トロ 数人 一日各 0.80 船積 浜出 同 同 0.80
(nagajis注:切断後乾燥室で叩きをしたということは、機械成形のピアノ線による切断面が均されてしまうということ。&乾燥室を有していたのは当時大阪窯業だけだった。大阪窯業の煉瓦に機械成形痕が見られないのはそのせいだ)
元より一例に過ぎず、各社原料地、機械、窯、積込場所の遠近便否により高低区々たるべけれども又以て一般を覗うに足るであろう。
此等の工場は工場の内か外に幾多の素地<ルビ:シラヂヤ>(分工場と名づくる者も大同小異である)を有し、手抜素地の請負をやらせて居る。此は異形等の関係上止むを得ざる点もあるが、中には単に異形の需要額に止まらず、廿何箇所を有し素地中の重要なる高に達する者がある。
手抜煉瓦が機械抜に劣るは争うべからざる事実で、捏[土偏+延]不完全なるより其切断面均一ならず粗雑にして鬆孔を存する等の欠点多く、殊に著しきは耐圧力の差の甚だしきにある。名古屋共進会の出品物の成蹟を見るに
手抜 機械抜 堺煉瓦製品 毎平方糎 一七一ー二一三瓩 四三三瓩 讃岐煉瓦製品 同 二二五瓩 三六四ー四六瓩
即ち約一に対する二の如き数を示して居る。手抜と雖も十分注意をすれば立派な品物が出来るは勿論であるが、経済上到底斯の如き愚をなす者はない。依て異形を除く外は漸次機械抜のみにならん事を希望すと雖も、色々の関係より中々理屈通りに行かない、然し自然永き間には改良せられる事であろう。
技術的観察は以上に留め<傍点>再び斯業発展の跡を尋ねる</傍点>。
前にも述べたる如く大阪付近の煉瓦製造業が大発達を遂げたのは日露戦争後である、此れを株式組織のものに付き其発達の一端を<傍点>払込資本の増加</傍点>によって覗わんに、
戦前(三十六年) 戦後(四十年) 四十五年 大阪窯業 一二〇、〇〇〇 六六〇、〇〇〇 八六四、〇〇〇 岸和田煉瓦 七五、〇〇〇 一五〇、〇〇〇 二〇〇、〇〇〇 堺煉瓦 五六、〇〇〇 一五〇、〇〇〇 二〇〇、〇〇〇 日本煉瓦 不詳 不詳 一〇五、〇〇〇
斯く払込資本の増加せる一方、戦後事業熱の勃興製品の引張合いと云う活況を呈した時は、各社とも驚くべき好成績を挙げ岸和田煉瓦の如き三割という本邦斯界空前の配当を行うを得た。最も当時の企業には随分如何わしいものが多く所謂泡沫会社が尠くなかったから、一朝其裏が来た時は非常に惨憺たる有様を呈したが、今では平調乃至稍好調に戻って相当の好成蹟を挙げている。此間の<傍点>純益関係</傍点>を表示すれば次の如し。
三十八年上半期 四十年下半期 四十五年上半期 大阪窯業株式会社 払込資金 一二〇、〇〇〇 六六〇、〇〇〇 八六四、〇〇〇 純利益 六一、四二六 一三五、六〇六 八九、三七七 配当率 一五% 二七% 一二% 岸和田煉瓦 払込資本 七五、〇〇〇 一五〇、〇〇〇 二〇〇、〇〇〇 純利益 二二、一八六 三五、三四八 二三、七五六 配当率 二五% 三〇% 一七% 堺煉瓦株式会社 払込資本 五六、〇〇〇 一五〇、〇〇〇 二〇〇、〇〇〇 純利益 一、九九五 一五、〇六二 (損)二七一 配当率 不詳 不詳 無 日本煉瓦株式会社 払込資本 不詳 同上 一〇五、〇〇〇 純利益 不詳 同上 9、729 配当率 不詳 同上 一〇%
翻って此時分に<傍点>東京附近</傍点>はどうであったかと云うに、大勢に於て同一の歩調を取り、金町煉瓦株式会社、東京煉瓦株式会社、日本煉瓦製造株式会社等やはり増資と共に好配当を行い、四十年下半期の如き金町煉瓦は二四%東京煉瓦は二〇%を配当している、今一例として金町煉瓦を掲げる。
三十八年上半期 四十年下半期 四十五年上半期 払込資本 一二五、〇〇〇 一五〇、〇〇〇 二〇〇、〇〇〇 純利益 七、二四七 三三、二九四 一一、九九〇 配当率 一〇% 二四% 一〇%
茲に注意すべき興味ある事柄は、関西殊に大阪附近は日本第一の煉瓦産地にして戦後の好景気に対する感じも最鋭敏であったにも拘わらず、当年煉瓦会社の新設せられたるものを余り聞かなかったが、東海道以東においては実に次の如き新設会社を成立せしめたのであった。
資本金 払込資本金 創業 関東煉瓦株式会社 一〇〇、〇〇〇 五〇、〇〇〇 明治三十九年 城北煉瓦株式会社 二〇〇、〇〇〇 二〇〇、〇〇〇 同四十年 東京煉瓦株式会社 一〇〇、〇〇〇 五〇、〇〇〇 同年 甲州煉瓦株式会社 一〇〇、〇〇〇 二五、〇〇〇 同年
各のごとく好況悲況相次ぎ相追い或は供給不足となり或は生産超過となり、価格又之に連れて昂騰し下落して居る。即煉瓦一千個に付大阪又は神戸水切り渡し価格、四十年三月に於て十六円と称する最高価格を示し、四十二年三月に至りては九円なる最低価格となり戦前の価格に接近せしが、昨年来稍々持ち直して本年に入り、需要の増進するに比べて供給力昨年と大差なき事とて市価は昂騰一方にて再三値上げを断行し、遂に四十年以来なき活躍を示し十三円を称するに至った。蓋し此結果を来した原因は主として京都大阪を中心とせる関西地方に於ける需要の激増せるに基づくものであるが、又一には<傍点>東京を始め関東地方に於て大阪附近の製品が著しき販路を見出した</傍点>事にも拠る。
以上述べたるように大阪附近の煉瓦業は先ず喜ぶべき趨勢を示して居るが、斯く四五の大小会社が並立している場合に誰でも思い付く事は(一)<傍点>カーテル</傍点>(二)<傍点>トラストの組織</傍点>である。而して我泉州煉瓦界にも両三年来此二大問題が宿案となって居る。<傍点>共同販売所設置案</傍点>は岸和田煉瓦の寺田社長の主張する所のものなる由。競争に徒消する費用と労力とを節せんとするもので、十目の視る所其利益は明であるが、いざとなれば従来開拓せる各自の老舗<ルビ>シニセ</ルビ>を持ち出す事となるより中々纏まりが附き兼ねる様子、第二の大合同組織は大阪窯業を中心として起これるもので、同社と堺煉瓦との合併は実際に於て十中八九分迄交渉成立せしが堺煉瓦の彼総会の結果となりて俄に破れ、岸和田煉瓦とも前年合併談が持ち上がったのであったが一部重役の反対のため立消となって終った。此は勿論共同販売所より数等困難な事で、各会社重役の系統資産評価等の関係上、適当な合同条件に折れ合うこと中々容易でないが故に遂に実行せられ難く、且つ此問題に付常に風雲を巻き起す源であった堺煉瓦が今日では合併反対派重役で固めドシドシ新設増築に熱中せる有様であるから、急に此自機の来るべくも見えない。或は共同販売所を中継ぎとして合同に達するだろうかとも考えられたるが、要するに此二問題は将来実現せられるものとしても幾多の波乱曲折を経た後であって、今日に於ては尚未解決の大懸案である。従て当分はまだまだ此群雄割拠の状態を継続するであろうが、多数の註文に応じて形状寸法品質の品正良好なるものを供給せんが為には、以上五製造所と雖も中一二を除けば尚規模の小なるを免れない。
次に斯業をいかに改良すべきかの問題を説くには他に適当な人があるだろうと思うから、単に一二の重要な事柄について数言を費しておく。
其一は<傍点>乾燥装置の設備</傍点>である。泉州煉瓦界に於て大阪窯業を除けば他は皆自然の乾燥に待っている有様で、其結果として梅雨期又は冬期等に不便を生じ、其他の時と雖もこの両期に備えるため無用の仕事をせねばならぬ、この点は第一に改良を要する点であろう。
次に<傍点>形状及び外見</傍点>に就ては本会主催の第二回全国窯業品共進会報告に「東京附近の製造業者は素地の仕上取扱に特別の注意を払えるを以て其製品は概して苦窳(注:窳=ユ、ワ、エ、器のきずや歪みを表す字)少なく形状亦方正なり。(中略)東京附近に於ては主として砂質壌土を原料とせるに反し大阪附近のものは陶土に近きものを用ゐ焼成の火度著しく高きにあるを以て其製品は前者に対し一般に堅緻なるは遍く世人の知る所なり、然れども同地方に於ては製造中素地の仕上及取扱等に周到の注意を欠くもの多く従て形状及外観の拙劣なるを免れず、表積煉瓦に於ても其線稜若窳し小石の表面に露出せるもの少なからずして東京附近の製品に比し遜色なき能わず、蓋し同地方は近年激烈なる競争の結果多少粗製濫造の弊に陥れるに依るならん云々」の一項がある。正に頂門の一針として注意する事が必要であろう。
次に稍々前項と関連した所もあるが、時分の見る所では将来は全然実用を主とする品と装飾の目的を兼ぬる品とにより、取扱製造の上に今少し多くの相違を附ける必要がないかと思う。全然実用を主とするとは建築物の裏積土工窯炉等に使用する場合、装飾を兼ぬるとは主として建築物の表積に使用する場合と斯う分けて見ると、前者は耐圧力耐久力の強からん事と形状の正確ならん事を要し、後者は色沢形状実質等の各条件共に前者より優秀ならん事を望むと雖も就中外観の整美なるを要件とする。此為には従来の表積煉瓦は甚だ不満足なものであって、時代の要求は更に一歩を進んだ貼付用化粧煉瓦に向って居る、大阪窯業が早くも此趨勢を観取して此方面に手を伸ばしかけたのは時宜に適した行動であるが、現時此貼付煉瓦に対する非難は形状寸法の不整、色沢の不揃等種々あるが、中にも価格の不廉と云う点は総ての口から聞く様である。之は畢竟製造額が少なく競争が激しくないからででもあろうが、赤色化粧煉瓦の如きは泉州煉瓦界で比較的容易に手を染めやすいものであるから、値段を廉く売出す見込みさえ附けば非常に需要が増すであろうと思われる。況んや近年流行の鉄筋コンクリート建築物には最もよく適合する品であるから一応考えて見る必要があるであろう。赤色以外の化粧煉瓦となると又自ら異なる所あり、殊に白色又は白色に近きものに至ては一寸どうかと思われる。此等は現今の所備前と白川とで十分需要を満たす事が出来様と思うし、又可成大仕掛にやる必要があるから此場合は又別の問題になる。
<傍点>手抜き</傍点>はなるべく少なくする必要がある事は前に述べた通りである。
以上は極めて概略大阪府下の煉瓦業に就て述べたに過ぎず、自分ながら飽き足らぬ節が多いが以て斯業発達の次第を察する一助となれば幸甚である。
茲に稿を終わらんとするに臨み、大正元年下半期の営業成績に就き最近手にした分を閲するに、大阪窯業は純益十万余円を得て前期より三歩増し一割五分の配当を行い、殊に二三年来欠損無配当の堺煉瓦が繰越損金一千五百余円を補填して七千五百円余の純益を収め五朱の配当をなせる等好調なるを窺うべく喜ぶべき事である。
雄大なる大阪窯業、健実なる岸和田煉瓦、疑問の堺煉瓦、着実なる日本煉瓦、丹治煉瓦を各一方の雄とする大阪煉の近附瓦業(大阪附近の煉瓦業)は、過去の興趣湧くが如きものありしと共に将来も吾々窯業界に生きる者の注意を牽く事であろう。(大正元年十二月二十七日於洛陽岡崎之客舎)