明治25年頃の堺の煉瓦製造業景況(『工業雑誌』雑報)

◯堺煉化石の景況 堺煉化製造所は総て九ケ所なるが右九ケ所の内当時其製造に取掛り居るのは附洲煉化会社、共立商社、旭商社、赤沢商社の四ケ所にして他の五ケ所は何れとも休業せり今煉化石売捌けの景況を聞くに昨年の如きは実に不景気にして右九ケ所の煉瓦製造所何れも休業せしのみならず到底目的なきの点より製造所を取毀ちたる所も有る程の景気なりしに今年に至り稍々回復の兆を呈し前記四カ所の製造所も製造に着手するに至りたり而して其価値の如き昨年にありては千個に付代金三円五六十銭なりしも今年の如きは五円十銭内外にて売捌く由堺市の煉化石製造の盛なりしは明治十五六年頃にして其当時の価値は千個に付金十二円内外なりしも其後或は十円八円、七円と年々下落し現に昨年の如きは三円五六十円の低価に至りしも今年は稍々騰貴したりと雖も十五六年の頃と比較せば半額の下に位せり然れども此中大坂水道工事もあり又鉄道布設の件も各所に起り居れば是より景気を取直すならんと当局者は喜び居れり今堺市煉化石製造の来歴を聞くに同地製造煉化の土質は他国よりも優等のよしにて厳寒の土地或は堅固なる事業に適し我鉄道庁は明治六年を以て堺市に於て原口中太郎氏に製造をなさしめたるより同市煉化石の上等なるを知り各所より注文多きが故に追々製造所を設くるもの増加して明治二十年頃には製造所の数も二十余ケ所に及びしに其後不景気より愈々減じて現今は僅かに九ケ所を存するのみ然れども鉄道布設の如きは尚過半同市の煉化を使用する由にて現に附洲煉化会社の如きは明治廿二年度には仁川港へ十万個の煉化を送り今年も已に見本として四五万個を送りたりとの事なれば是よりは追々此の不景気を挽回するならん

『工業雑誌』第一巻第十三号 雑報(合巻643丁) 明治25年10月8日

明治15~からの煉化価格の推移もわかってありがたい。

https://bdb.kyudou.org/?p=13828

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