『明治大正大阪市史』第4巻 pp.654-655
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1237091/366
これより前、五年八月南大組十四小区難波新地六番町に出張授産所なるものが設けられ、専ら煉化石及粗造陶器等の製造につき教授し、入場者には相当の賃金を与えてその仕事に従事せしめてをった。蓋し右の如き職業を特に選んで授産した訳は、当時の煉化石職人等の内にはその数少なきに乗じ、可なりの横暴を極め雇主等を困却せしめる者が少くなかったから、右技術の普及によりかかる弊を一掃せんがためであった。この出張授産所は翌六年八月第一勧業場の開設と同時に第二勧業場と名を改めたが、事業成績極めて良好であり、その収入を以てよく経費を償うことが出来た。されば同年十月、第一及第三勧業場(後述)の廃止にも拘らず、依然として其業を続け、事実上右勧業場の仕事を引受けることとなった。かくて十一年三月、右事業の継続を条件として東区高麗橋一丁目藤田伝三郎に之を払下げるに至る迄、その事業を続けて居た。