江州煉瓦

大正7年10月18日滋賀県下に設立された煉瓦工場(官報1918年11月9日)。創業に際しては県下各所の煉瓦工場が合同した節があり、例えば膳所の黒川煉瓦工場が膳所工場に(同工場の工場主であった黒川梶次郎も役員として参加、工場は膳所町錦298)、明治末~大正初期に田中煉瓦製造所があった栗太郡老上村矢橋には矢橋工場(彦根工場)が設けられている(『草津市史 第3巻』)。また昭和3年には大阪窯業が手放した近江工場(栗太郡山田村南山田)を引き受けて山田工場とした。最後まで操業を続け、守山を代表する産業のひとつとなった守山工場(栗太郡物部村浮気319)は創業時に新設されたものであったようだ。

創業時には膳所工場に本社が置かれていたが14年7月5日に浮気へ移転(官報1925年9月16日)。また昭和3年3月22日には大津在の薪炭商兼運送業で江州煉瓦と取引があった上田元次郎が取締役となり(官報 1928年5月25日)、以降昭和21年に亡くなるまで同社を牽引した。元次郎亡き後は息子の健次郎が請われて社長に就任し、かつての大阪窯業のお株を奪うような活発な生産を展開。23年に日本赤煉瓦協会が設立された時は上田健次郎が初代の会長を勤め、また26年には煉瓦造建築の耐震性能を実証するため(同社開発の耐震煉瓦を使用?)実建築を使った耐震試験を行なったりもしている。(以上時事通信社『この人・その事業 第3 (時事新書)』)(昭和31大津商工会議所頭取、元次郎も副頭取を勤めた時期あり)

滋賀県を代表する煉瓦工場のひとつとして長く生産を続けたこともあり、県下でこの工場の”Ⓖ”刻印を見ない地域はないというほど遍く分布している。滋賀県以外にも福井県越前市、大阪府茨木市、吹田市、京都府木津町、奈良県奈良市など近隣諸府県でも検出例が多い。

大津市膳所の膳所城跡公園近くで見た煉瓦壁には大量の焼損煉瓦が使用されており、その壁の天辺に機械整形の”Ⓖ”と漢数字の添字のある煉瓦が使われていた。『工場通覧』大正8年版掲出の黒川煉瓦工場のデータと同10年版の江州煉瓦膳所工場のデータには「他1/3馬力」と動力の記載があるのでこの頃にはすでに機械成形を行なっていたものとみられる。膳所市街には他にも焼損煉瓦を装飾的に使った見事な壁があり(横田眼科医院塀)、これとよく似たものが守山市西藤小児科にも採用されている(下写真)。

”Ⓖ”刻印煉瓦の大半は東京形あるいはJISサイズの機械成形煉瓦だが長浜市柳ヶ瀬の民家に使われている製品のように手整形煉瓦に打刻されたものも存在する。ただ手成形でもJISサイズのものがあり、戦後も機械成形と手成形が並行して採用されていたものと思われる。

明治44年に設立された京近煉瓦株式会社(京都市左京区西照地、現・上京区岡崎最勝寺町)は京都・滋賀の煉瓦工場が製品の販売窓口とする目的で設けられたもので、滋賀県下の工場の多くも京近煉瓦と提携していた(中川煉瓦、大阪窯業、田中煉瓦製造所等。参考:大正2年刊『滋賀県産業要覧』)。しかし同社の関係者を通年追ってみても江州煉瓦関係者の名は現れず、京近とは距離を保って独立不羈の経営をしたようである。その一方で昭和15年刊『日本工業要鑑 昭和16年版』(第27版))には江州煉瓦が京都市丸太町通知恵院西入に「合同販売所」を所有していたという記載もある。戦時中の生産統制を受けて仕方なく設けたものか。(赤煉瓦が生産統制の対象になったのはいつ? 普通煉瓦最高価格指定はS18 https://dl.ndl.go.jp/pid/2961443/1/6 全國赤煉瓦工業統制組合統制規程設定認可 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961923/4 )

(京近煉瓦は昭和15年刊『工業取引案内 昭和16年度』まで掲出を確認。S11日本工業要鑑では社長中川市三郎とあり工場も中川煉瓦工場しか記載がない。この頃には専ら中川煉瓦の販売窓口となっていたようだ)

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