東洋組 “瓦磚製造所”印

東京湾要塞猿島砲台で検出されている刻印。東洋組は明治15年に愛知県で興された実業団体で、県下各地に分局を設けて士族授産事業として煉瓦や瓦、土管、セメントの製造を行なった。成果はともかくとして世間の耳目を集めた事業だったために東洋組のことを取り上げた文献は数多く存在するが、そのせいでかえって実像が不鮮明になってしまっているようである。詳しくは拙作『東洋組始末一班』を参照されたい。かいつまんで書けば

・明治15年1月頃?に齋藤実堯が発起人となって設立。当初から士族授産の目的で始めたのではなく、宇都宮三郎門下で窯業に明るかった齋藤が個人的な事業として始めた可能性が高い。

・設立当初から東京湾要塞への煉瓦納入を意図しており、陸軍省から受注した131万個余りのうち約70万個を明治15年3月から6月にかけて製造し納入している。この工場は碧海郡新川町(現碧南市域)にあったとされるが正確な場所は諸説あって定かでない。

・初期東洋組の納入は計画通りに行かず、新たな工場の設置が模索されるなかで愛知県令国貞廉平や県官吏檜了介の知遇を得、その強力なバックアップを背景とする頃から「士族授産事業としての製造」を謳うようになった。安価に大規模生産を始めたい齋藤が県の士族支援政策に相乗りするような形(ゆえに「士族授産事業として始められた」とは言い難いところがある)。

・東洋組は「煉化石製造方」の株、「瓦販売方」の株といったように事業種単位で株主を募集し、その事業を各地の分局が実施するという形態を取っていた。東洋組傘下に各製造の子会社がある形だったわけで、東洋組が資金繰りに行き詰まって瓦解したあとはそれら子会社が独立・合併して「天工会社」を名乗り、各分局も天工会社分局として存続することになる。

西尾分局は明治16年2月に開業、続いて同年4月に刈谷分局が稼働を始め、各分局とも同年中に100万個以上の煉瓦を生産している。しかし16年末頃に砲台建設が一時中止となり、納入を済ませた煉瓦が「購求中止」になってしまったため、納入品の代価を県経由で前借りするという自転車操業であった東洋組は立ち行かなくなってしまった。もともと齋藤は、全国各地に砲台が建設されるので「向こう10年間毎年1000万個の需要が発生する」と見込んでいた。その目論見が一年目にして早くも崩れ去ったわけである。

・それ以降明治18年2月に天工会社が独立するまでは陸軍営舎の建設用や皇居造営用の受注で凌いだが、皇居用に納入した煉瓦に非合格品が多くあって受領が拒否されるという事件が起こり、これが致命傷となって開店休業状態に陥った。

・理解のあった国貞県令が明治18年1月に急逝、代わって入った勝間田稔県令の代に貸付金問題の解決が図られたが、その頃には天工会社が独立していたために(東洋組自体には資産がないと判断され)全額回収不可能と判断せざるを得なくなっていた。その穴を県税で補填しようとしたために県議会が大紛糾したのが、いわゆる「東洋組事件」。

・天工会社の設立で資産没収を回避したのち、西尾の工場は旧西尾藩士の経営する工場として独立(精成社)。さらにこの工場を東京在の笠原光雄(旧西尾藩士;バックに旧藩主松平乗承が存在)が買い取り、改めて旧西尾藩士に貸し付ける形で西尾士族生産所が発足した。そうやって東洋組色を払拭することで貸付金問題を完全解決しようとしたものらしい。一方刈谷分局は世話係であった大野介助が引き取り個人工場として操業が続けられた(ここでいう刈谷士族工場、後の大野煉瓦)。

以上の経緯を踏まえたうえで既知の東洋組刻印を検討すると、それぞれの使用時期を工場変遷に一対一に対応させられることがわかる。具体的には

①「愛知名古屋/東洋組瓦磚/製造所之印」

新川時代の使用印、東洋組創業直後から西尾分局設立まで
(M15.3.~6.)

②「東洋組西尾/士族就産所

西尾工場の初期使用印、西尾工場の創業から刈谷分局設立まで
(M16.2.~4.)

③「東洋組西尾分局/士族就産所

西尾工場後期使用印、刈谷分局設立以降天工会社設立まで
(M16.4.~M18.2.)

④「愛知東洋組/刈谷分局/製造之印

刈谷工場使用印、時期同上

東京湾要塞猿島砲台では①、③が検出されているほか、①印に添えられた識別印(”□+漢数字”)のみを捺したものもある。②や④も未だ見つかっていないだけで多く使用されているのではないだろうか。それぞれで産地が違うとなれば胎土分析による判別も可能かも知れない。

東洋組は野焼き法で煉瓦を焼いていたという記述が『煉瓦詳説』にあるが、実際既知の刻印煉瓦の大半は焼きが甘く、胎土に含まれている雲母が結晶構造を保ったままであることが多い(そのため光にかざすとキラキラと輝く。猿島ビジターセンターに展示されている”瓦磚製造所”印煉瓦などもこの系統)。一方、旧第二砲座の掩体部として建設された構造物に見られるような、よく火が通って赤煉瓦色に発色したものは肉眼で雲母の輝きを確認することはできない。金雲母は800度前後で脱水反応を起こし非晶質化するとされるのでそのために隠在化してしまうのかも知れない。なお金雲母の含有量は西尾の製品が最も多く結晶も大きい(1~2mmほど)。刈谷分局の煉瓦は針の先ほどの微細な雲母結晶を多く含むようである。

野焼き法で製造したという記録がある一方、各分局とも晩年には宇都宮三郎の考案による倒炎式窯を築造していたことが判っており、操業の間に増設したもののようである(そもそも野焼き法は臨時の煉瓦製造に採用されるものなので、野焼き法で焼き続けたということはないと思われる)。西尾分局に設けられていた窯は12室の連房式で、登り窯を平地に置いたような外見のため平地窯とも呼ばれていた。ただし西尾分局が士族生産所として活動を再開した頃にはこの窯は使用されていず、もっぱら登窯のほうを使用していたようである(清水鉄吉『東海道筋並京都大阪巡回記略』〔「工学会誌」第57号〕)。宇都宮の改良窯は燃焼効率を高め薪を大幅に節約できるという触れ込みで、常滑に設けられた美術研究所でも採用され好評を得たというが、これが窯業窯のスタンダードにはならなかったことを考えると普及を妨げる難点が何かあったのかも知れない。平地窯で焼いていたはずの西尾分局印煉瓦に焼きの甘いものが多いのを見てもそう思われてならぬ。なお新川町で製造をしていた頃にどのような窯を用いていたかは記録がないが、斎藤が愛知新聞に掲げた記事ではこの窯で瓦を焼くことの効用を謳った箇所があり、新川時代にもやはり宇都宮式窯を採用していたものとみられる。仮にそうであれば猿島ビジターセンターに展示されている瓦磚製造所印煉瓦と分局時代の煉瓦とが大差ない焼色であることにも納得がいき、登り窯のような高温は出せない(出すのが難しい)窯だったということになる。

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