東洋組刈谷就産所
西尾の分局と同様、煉瓦製造を主目的として創始された工場。政府の窯業技術を民間へ移植するため適地を探していた斎藤実堯の思惑を汲み、刈谷藩の家老であった大野定とその弟介蔵が受け皿となって刈谷の地に創業した(工場経営は介蔵が担当)。
経始の頃のいきさつは介蔵の第一子で後に県会議員や刈谷町長も努めた大野一造の自伝『迎喜寿我足跡』に詳しく、ここでしか知れないエピソードも多い。例えば旧藩士の就産を主目的とすることは大野定が言い出したことで、斎藤がそれに乗じ、各地の分局ももそれに倣って設立されたとしている。鎮台用煉瓦需要が無くなり販路に窮したこと、皇居用煉瓦や瓦の製造で糊口を凌いだことなどは西尾士族工場に同じ。東洋組離脱の時期は明らかでないが、創業から「七、八年後」に鉄道省の職員が訪れて煉瓦製造を依頼され、その納入が成功裡に終わったため改めて煉瓦製造を本格化させたという書きぶりになっている。東洋組刈谷分局としての創業はM16だった節があり(他資料)、そこから7、8年後とすると東海道線工事には間に合っていなかったことになるが、刻印煉瓦の検出状況から東海道線やそれに先駆ける関ヶ原以東線の工事に供給していたのは確かなようである。大野氏の個人工場としてリスタートしたのが東洋組創始の7、8年後という意味なのかも知れない(『迎喜寿〜』は筆任せに書かれたところが多く、読み込めば読み込むほど不明瞭になるので注意が要る)。
西尾の士族授産所と異なり東洋組分局以降の経過がはっきりしないが、大野氏が工場を引き継いで生産を続けていたのは確かなようだ(以降「大野工場」カテゴリを参照されたい)。また東洋組の創始を伝える資料は数多くある一方、その結末を教えてくれるものは何故か皆無に等しく、愛知県下の煉瓦製造業史におけるミッシングリンクといっても過言ではない。
(以下[独自研究])
『愛知県議会史』第一巻に気になる記述がある。明治17年から18年にかけて県側と県議会が地方税貸下金の処置を巡って激しく対立し、俗に「東洋組事件」として県民の耳目を集めたという。これは国貞知事が東洋組等に対して貸し下げていた地方税費の打ち切りとその回収方法について、知事と議会が激しく対立したというものである。『議会史』のこの項目が自ら白状しているように資料不足でよく消化されないまま書かれてあるため詳細が掴みにくいのだが、東洋組に対する無抵当での貸下げが知事の独断で行われていたこと、また東洋組がその返済を滞っていること、それへの対応を県が放置してきたことに議会の不満が爆発したものらしい。
ここでいう東洋組は『議会史』には田中勘七郎他五名とともに警察本署新築にあたっていた請負業者という書きぶりになっているが(p.649)、これが件の東洋組であることは疑いようがない。議会で否決された議案は参事院に裁定が仰がれ、結局は知事案が通ることになるのだが、その裁定書によれば東洋組への貸付金は16140円60銭6厘とあり、これは東洋組設立に際して県が15000円を貸与したとする『愛知県史』第3巻(昭和14)p.118の記述にも一致する額である。
国貞知事はこの貸下金打切と返納方法についての諮問(回収できなかった金額を17年度地方税費で補おうとした?)を議会に提出する直前、明治18年1月18日に病没した。代わって就任した勝間田稔知事は5月7日に臨時県会を招集し該諮問を提出、議会は猛反発し、参議院の裁定が下されたのが同年11月8日付だった。また同年末の通常県会でもこの件の追徴額について議論されたが知事と議会の対立は続き知事案が否決されている。
東洋組の活動がフェードアウトしていくのはまさにこの「東洋組事件」の頃である。資金繰りが上手く行かなかったことに加え、貸下げ金を巡って議会が紛糾し風当たりが強くなったために、明治17年~18年中には東洋組を畳んでしまったものとみえる。『迎喜寿~』には国貞県令が東洋組出資者の大村公(大村純雄)や南部公(南部利恭)と会見し「資本を回収する意思はないが折角設立した煉瓦事業は誰か続いてやって貰いたい」と伝えられ、国貞県令も介蔵を支援する約束をしたというエピソードが書かれてある。その通りであれば明治17年中にはすでに解散していて、そのために貸付金が回収不可能になっていたのかも知れぬ。田原のセメント工場なども設立から2年後(明治17年)には斎藤実堯が当地を去ったと伝えている。
東洋組時代の製品としては、東京湾要塞に採用された東洋組時代のもののほか、工場所在地に隣接する刈谷市司町でも見ることができる。東洋組ではイギリス流の野焼き法で焼いていたとする記録もあり(『明治工業史 化学編』)、それを裏付けるような焼きの甘い煉瓦である。