大和煉瓦
明治32年以前に本社を大和郡山市に、帯解村広大寺池のほとりに工場を置き設立(奈良県立図書情報館蔵定款)。初瀬鉄道(現万葉まほろば線)の建設に煉瓦を供給し、”^ト”の印のある煉瓦が帯解村域の橋梁を中心に分布している。同40年7月に稲田修治が継承(橿原考古学研究所報文集101号)してからは個人工場として操業を続けたようで、『工場通覧』でも名称が一定しない。
工場所在地では今でも”^ト”刻印の煉瓦が見られ、また焼損煉瓦を積み上げて作った壁が残されている(聞き取り調査でもこの印が大和煉瓦のものであるという証言が得られた)。
『帯解村誌』に概略の掲載あり。煉瓦だけでなく土管や瓦なども製造し、大阪方面にも出荷したという。その言葉を裏付けるように、大阪府豊中市野田町の公園花壇でも”^ト”を見ることができる。