伊予煉化石製造所→伊予煉瓦(合資)→三津浜煉瓦製造所

大正2年設立の三津浜煉瓦株式会社の前駆体となった煉瓦工場。明治18年2月に個人工場として創業し、明治25年頃には伊予煉化石製造所(『日本全国諸会社役員録』明治26年版)、同31年4月に伊予煉瓦合資会社となり(同32年版)、35年頃三津浜煉瓦製造所(『工場通覧』明治35年版)と変遷したようだ。

この時代には三本線マーク以外の刻印を使用していた形跡がある。例えば明治20年代に建設された下関要塞では”いよみつ”の文字を縦長の小判型で囲った煉瓦刻印が見つかっているし、三津浜煉瓦工場跡で”○ト”の印が検出された記録がある(出典を亡失してしまったが『山村文化』に高橋幹氏がその旨投稿していた。おそらくNo.27「石ケ山丈停車場の煉瓦」(2002.6)。消防署付近の再開発に伴う掘り返しで出土していたとあったように記憶する)。

後者の印は各所で検出例あり。例えば

・大阪 貞徳舎煉瓦塀(工場はM22創業、中期型岸和田煉瓦刻印と共使い、亡失)
・愛媛 別子銅山喜三谷社宅跡(M35第三通道開通後に建設開始:高橋幹「喜三谷社宅跡の煉瓦」〔『山村文化』第25号 〕)
・広島 宇品糧秣支廠倉庫(M44竣工)(広島市郷土資料館調査報告書第16集『れんがと広島』)

など。いずれも三津浜煉瓦(株)成立以前のものである。安芸津町中ノ村でも転石を検出した。安芸津には明治20年代末から多数の煉瓦工場が成立しており、その建造のために持ち込まれたものと推測される。いずれの検出例もカナ文字の識別印を伴う。

「 伊予煉瓦」カテゴリーアーカイブ

WP Twitter Auto Publish Powered By : XYZScripts.com