五稜星((推)泉州煉瓦製造所、橋本組工場)
5つの稜をもつ、いわゆる星形の刻印。大阪府下淀川以南で比較的頻繁に見られる。大阪府和泉市の旧府神社壁に堺煉瓦・日本煉瓦との共使いが確認されており、また分布の中心が堺市近辺にあるように思われる。特に堺市堀上町(旧八田荘村大字堀上)にはこの刻印煉瓦だけを使って築かれた見事な煉瓦ワークの壁がある。隣の大字八田で操業していた塔本煉瓦商会の製品ではないかと推定。泉北郡踞尾村(現:堺市西区津久野町)の泉州煉瓦製造所の製品と見たほうがよいようである。
理由1:大正13年刊『大阪府実業参考録』に塔本煉瓦の掲載があるが、ここにはイリヤマ+当の屋号が掲げられている。また工場は八田荘村字ヲチノ池とあり、工場跡と推定される一角が蜂田神社の北方にあるが、ここに転じている焼損煉瓦はすべて無刻印であった。
理由2:泉州煉瓦製造所の所主:高石覚本は当時関西で隆盛を誇った土木建築請負業・橋本組の支配人で、土木請負業組合の設立にも尽力した「玲瓏玉の如き人格者」であったという(大正14年『日鮮満土木建築信用録 4版』)。泉州煉瓦製造所が橋本組の専属煉瓦工場として設けられたことは想像に難くなく、事実橋本組が煉瓦工場を経営していたことが大正7年『帝国現代縦横史』にもある。橋本組は旧日本郵船神戸支店ビルなど様々な建築を手掛けていて、そこに自社製品を使ったのであれば、操業期間は短いものの関西各地で転石が検出されていることも辻褄が合うーーー特に関西地方では大正5年以降煉瓦需要が回復し、生産数・価格とも過去最高を記録し続けた。T5~T10のという泉州煉瓦の操業期間はちょうどその「第二次煉瓦バブル」期に一致するーーー。土木建築請負業者による自前煉瓦工場の運営は大阪土木会社や入江組などの先例がある。ただし橋本組自体は創業者・橋本料左衛門の一字を取った「◯に料」を商号としていた(『大日本商工録 : 公認 大正14年版』)。
理由3:該刻印煉瓦は工場所在地であった踞尾村の住宅地内や堺市中区堀上町でまとまった量の使用が確認されている。 特に堀上町の使用は卓越した煉瓦ワークの壁で、橋本組が自社製品で施工したものと考えるに充分なものであった(惜しむべし、近年この壁は解体撤去されてしまった)。それ以外の検出事例も大阪府下中・南部に偏っている。
堺市堀上町の煉瓦壁(2008年頃?撮影)。浅いライズのアーチ窓に透かし積みで煉瓦を嵌める。笠石や柱頭には異形煉瓦を使用(すべて★刻印あり)。
参考:丹治煉瓦社屋の一筋南にある民家の壁。当初は工場の一部か関係者の居宅であったものと思われる。堀上町の壁に見られるような丸窓はないが、雰囲気はよく似ている(と思う。2つ並べてみると違いのほうが目立つかも知れぬ)。
※橋本組の業績は前掲『日鮮満土木建築信用録』にあり。この実績と五稜星刻印の分布状況を重ね合わせることができたら面白いだろう。また五稜星刻印が泉州煉瓦製造所のものだとすれば、同工場の操業期間は大正5年~10年ときわめて短いので年代示準刻印として有効だといえる。
由良要塞生石山第四砲台(明治22年3月着工・同23年4月竣工)でも星形刻印が見つかっているが、稜が細く、2つ隣の稜の辺が並行でないという違いがある。本カテゴリに含めた★刻印は純幾何学的な五稜星で、かつどの刻印も全く同じように見える(=刻印を更改するほど長期に渡っては絵操業しなかった)こともあるので、両者は異なる製造者の手による製品と思われる。ただし橋本料左衛門は明治11年から西洋建築の請負を始めたというので必要に応じてその都度小規模な生産をしていたと見れなくはない。