形状指示 アルファベット(刈谷士族工場)

明治24年6月に恒久橋に改築された武豊線石ヶ瀬川橋梁の下流では、その解体瓦礫とみられる古煉瓦を見ることができる。この中に後の井筒用異形煉瓦規格にはない”F””G”があることは注目に値する。異形形状も後の規格にないもので、”G”は曲度の強い扇形、”F”は撥先が広く手元が狭い撥型である。いずれも刈谷士族工場(大野工場)の井桁印が添えられている(同じものを刈谷市街でも検出)。

この”F”、”G”は東海道線建設に際し天竜川橋梁や大井川橋梁などに採用された大型楕円形井筒用の異形煉瓦でありその形状指示印と推測される。東海道線工事が終了し余剰在庫となったものを石ヶ瀬川橋梁の建設に流用したのだろう(石ヶ瀬川橋梁には9ft円形井筒が採用され、河原でもC~Eに相当する異形煉瓦を多く見るが、その中に混ぜて使われていたものだろう)。明治24年10月に発生した濃尾地震により長良川橋梁は大型楕円形井筒の橋脚に作り直されているが、ここでは7種類の異形煉瓦と1つの普通煉瓦(厚2-1/4インチ)が使用されたと記録にある(野村龍太郎「長良川鉄橋改築工事報告」〔『工学会誌』第127号〕)。それとほぼ同径の天竜川橋梁等でも同程度の異形煉瓦が使用されていた可能性が考えられるわけである。蛇足だが9ft/12ft井筒で採用されたA~EにF、Gを加えれば7種類になる。

この煉瓦に井桁+漢数字の判が押されていることも、東洋組刈谷分局の後継会社(後の大野工場)がこの時期すでに井桁印を用いていたことの証左として貴重。刈谷分局は東洋組の解散後も煉瓦や瓦の製造を続けていた節があり、それが明治25年に刈谷就産所として再スタートするまで途絶えず(刈谷就産所以降は大野氏が個人で経営していた節があり大野氏の井筒紋を使用していてもおかしくはない)、なおかつ官設鉄道への納入もあったことを物語っている。

刈谷士族工場が東海道線工事に際してアルファベット形状指示印を使用していたことを勘案すると、浜名第一橋梁井筒の”E”、石ヶ瀬川橋梁跡や垂井市街地で検出された”D”なども同工場由来と考える余地が生じる。ただし”A”、”B”、”C”については系統を一にする印は見つかっていず、これらは他と同様に”エー”、”ビー”、”シー”のカナ表記を用いていたようである。例えば明治18年10月竣工の赤坂川橋梁では井筒刻印に形状指示”シー”を添えた異形煉瓦が見つかっている。また竜川橋梁や浜名橋梁、石部隧道複線化時延伸部では井筒印に”ビー””甲””乙”を打刻した製品が見つかっている。天竜川橋梁と浜名橋梁は転石のため出胎した構造物を確定できないが、”甲”・”乙”は明治29年制定の少楕円形井筒用規格の甲を示すものと見られ、特に”乙”は明治44年に延伸された坑口の壁のmassに使われているため後年の製品であることが確定的である。

追記:天竜川橋梁左岸側第2橋脚の足元に堆積している煉瓦瓦礫の中に”F”を検出したのでこの系統が大型楕円形井筒用に製造されたことが確実となった。該瓦礫は新旧橋梁のものが混在しているとみられ、井筒上の橋脚構造から出胎したと思しき普通矩形の肉厚煉瓦がほとんどである。

初代橋梁の井筒らしい構造物も下流側に残存しているが、岸辺にあるもの(第2橋脚)も河中にあるもの(第3橋脚)も鉄筋コンクリート造で、ここに煉瓦を見ることはできない。昭和19年の東海地震の際に陸軍の手で応急復旧され、その後昭和31年12月までの間に根継ぎ補修が施されたと『鉄道技術研究報告 (390)』にあり、露出しているのはその根継ぎの部分とみられる。その後昭和44年(1969)に現橋梁が完成し、旧橋脚を取り壊して岸辺の埋立に用いたのが該瓦礫で、早い段階に井筒部が改築されていたために異形煉瓦の含有量も少ないのだろう。

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