明治23年測図1:20,000図ではこの位置に窯記号。その後北方に敷地を移していき、最終的には大野工場敷地が刈谷市に寄贈され刈谷球場が建設されている。
最初期には英風の野焼き窯を使用したが、鉄道省へ煉瓦を納入し出す頃に岸和田の煉瓦工場から技術供与を受け、また同工場から職人を借り受けて岸和田で使用されていたのと同じ登窯を築いたとされる(大野一造『迎喜寿我足跡』)。この登窯も煉瓦焼成用に改良を施したもので「一回に三、四万位いは焼けて」都合が良かったという。
Yet another brick-seals database in KANSAI Dist.
明治23年測図1:20,000図ではこの位置に窯記号。その後北方に敷地を移していき、最終的には大野工場敷地が刈谷市に寄贈され刈谷球場が建設されている。
最初期には英風の野焼き窯を使用したが、鉄道省へ煉瓦を納入し出す頃に岸和田の煉瓦工場から技術供与を受け、また同工場から職人を借り受けて岸和田で使用されていたのと同じ登窯を築いたとされる(大野一造『迎喜寿我足跡』)。この登窯も煉瓦焼成用に改良を施したもので「一回に三、四万位いは焼けて」都合が良かったという。
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