西尾士族生産所(円形井筒用異形煉瓦 カナ指示+”□+漢字”)

『西尾市史』第4巻によれば、東洋組西尾分局は明治18年7月から東洋組と縁を切る方向に転換し、天工会社→精成社と名称変更したのちに解散し、工場敷地や諸機械一式を東京深川亀住町在の笠原光雄に売却した。笠原は旧西尾藩主松平家の家令なので実際の買主は旧藩主相続人松平乗承だったと考えられている。これを西尾士族に再び貸与する形で明治19年3月に西尾士族生産所が設立された。

この離脱・新設の時期に、すでに「鉄道局御用の大形煉瓦」を受注し生産に入っていたことが『西尾市史』第4巻所収の生産所関係者の書面にある。この頃東海道線の建設が始まっており、他工場もその売り込みを画策していたが、品質その他の問題があり西尾士族生産所が独占状態にあったとも。風水害で乾燥中の煉瓦を毀損するといった障害もあったが、創業からの1カ年に「A、B、C厚型、並形」、合わせて253万1187個を焼いている(売上個数は228万5352個)。

『西尾市史』には明治20年10月11月棚揚げ表と称する一覧も掲げられており興味深い。

下等交り煉化石

138,831枚

1銭につき7枚

上等イー形

37,882

1000枚につき8.15円

同 デー形

5,381

1000枚につき7.00円

同 ABC形

52,607

1000枚につき6.00円

同 厚形

64,672

1000枚につき8.15円

同 並形

1,889

1000枚につき4.00円

同 イロハ印形

1,395

1000枚につき6.00円

下等交り形

33,070

1銭につき8枚

エー形白地

7,168

1000枚につき1.10円

デー形白地

6,947

1000枚につき1.17円

ここに掲げられているA~C形、および”デー”=D形・”イー”=E形は鉄道橋脚の円形井筒に用いる扇形や撥形の異形煉瓦とみられる。実際初代揖斐川橋梁(M19.12竣工)の橋脚井筒、その周辺に散乱している瓦礫に”エー”、”ビー”、”シー”という表記の刻印煉瓦が検出され、後に定規化された円形ウェル用煉瓦の形状とその呼称(A、B、C)にも一致する。その多くが西尾士族生産所製であったはずである。(c.f.形状指示カテゴリ)

揖斐川橋梁の井筒の煉瓦には縦横2分ほどの小さな漢字を四角で囲った添印が添えられていることが多く、具体的には「圡(点つき土)」「平」「青」「萩」を検出する。また一連の鉄道工事の余剰分を寄せ集めて建設されたとみられる石ヶ瀬川橋梁(M24.6.改築)の残骸とみられる扇形異形煉瓦には形状指示印「シー」を打刻した「斗」を検出した。『西尾市史』所収書面には鉄道局御用品の製造能力のある者が17、8人いたことが記されてあり、彼等のうちで使われた識別印であったと想像される。

西尾士族授産所は明治23年夏に跡地と残余煉瓦を買い取り耕作地にしたという記録がある一方(『西尾市史 第6巻』年表)、明治25年に廃絶したという情報もあって結末が定かでない。愛知県統計書では明治20年のデータを最後に姿を消している。

なお、”エー”、”ビー”、”シー”の形状指示は勢陽組の製品や斜井桁+三線刻印大野就産所の製品にも見られるが、勢陽組の指示刻印は一文字が3cm四方もあるような大型の文字で、一辺1.5cmほどの文字を使った木曽三川橋梁の指示刻印とは隔たりがある。また勢陽組工場所在地では□囲みの識別印は見られなかった。斜井桁+三線刻印や大野就産所の指示表示はより小さい。いずれの表示も長音記号を長く伸ばす傾向があり時代を感じさせるものである。

非常に興味深いことに、木曽三川の橋梁に見られる”□+漢字”の添印は敦賀港駅ランプ小屋に見られるものと全く同じものがある。例えば”□+圡”などは完全に一致するし、「青」「平」なども揖斐川橋梁に見られるものによく似ている。揖斐川橋梁の”□+漢字”印が西尾士族生産所のものであるとすればランプ小屋の建設時期に明確な目処を与えられる。

その他西尾士族生産所製と見られる煉瓦は、東は浜名橋梁の旧橋脚基礎(9ft円形井筒)、西は長浜駅の南方にある湊堀橋梁の”デー”、湖東線仁保川橋梁橋脚の解体瓦礫とみられる煉瓦の漢数字刻印などがある。東海道線沿線には西尾生産所以外にも市古工場勢陽組の製品も広範囲に分布しており、できるだけ余さず使い切ろうとした姿が窺えて興味深い。

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